
|

|
|
|
2025.10 須賀 工 (すか たくみ)
|
神を知らぬ者は心に言う
「神などいない」と。
(詩編14篇1節より)
使徒パウロは、次のように記しています。「世界が作られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマの信徒への手紙1章20節)
パウロが言うように、人間は、神を知っているにも関わらず、神を知らないと豪語することがあるのです。正確に言うならば、知っているはずの真の神を、真の神としない、というところに人間の現実があるのです。宗教改革者であるカルヴァンは、人間には、神様を知る種があるはずだと主張しています。このように人間には、真の神を知りつつも、神を知らないという、聖書的に言うならば罪の問題があるのです。
この世には「神を知らない」という考え方があります。あるいは「神などいない」という考え方もあるでしょう。その理由は、様々です。「災害」「事故」などを経験し、「もう神も仏もいるものか」と言う人もいれば、単純に自分は「無神論」であると考える人もいます。
前者は、苦難の中で神の存在を憎み、神の存在を否定していることになります。勿論、苦しみや悲しみの中で、そのような感情に捕らわれてしまうことは、理解することができます。私もそうなるかもしれません。しかし、私達は、存在しないものに対して、憎しみを持つことはできません。憎しみがあるならば、存在を肯定しなければいけないわけです。
後者の「無神論」を主張する場合は、どうでしょうか。「無」であるならば、そもそも、「無神論」という言葉や立場が存在することはありません。「無」というのは、存在に対して「有る」か「無い」かの選択をしているわけですから、「有る」を認めなければ、成立しないわけです。そもそも。多くの科学者は、敬虔なクリスチャンであると聞いたことがあります。つまり科学的にも「無」から「有」は生まれないということはこれまでも主張されてきたわけです。このように、人間は、潜在的に神様の存在を知っているわけですから、正に弁解の余地はない、ということになるわけです。
このように、神様の存在を否定することは、それぞれの人間の意識や恣意によるものであると言えるでありましょう。しかし、神様は、それでも、人間を「見渡し、探される」(2節)とあります。神様は、私達に眼差しを向けることを止めないのです。人間を見捨てるのではなく、人間を見つめておられる。忍耐しておられる。どんな苦しみや悲しみを前にしても、神様によって見守られているという幸いを、心に留めたいと思うのです。
|
|
|