
|

|
|
2025.9 須賀 工 (すか たくみ)
|
いつまで、主よ
わたしを忘れておられるのか。
(詩編13篇2節a)
「いつまで、主よ」と、ダビデは嘆きます。私達もまた、このような感情に支配されてしまうことがあります。辛いことや悲しいことや苦しいことが続くと、これは一体、いつまで続くのだろうか?と嘆きたくなるものです。
しかし、ダビデは、嘆きのままで終わることはありませんでした。「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り……」(詩編13篇6節)とありますように、この嘆きもまた、主への信頼の中にある、ということが分かるのです。
信仰を持って生きる、ということは、決して、「主に対して嘆かない生活」を送るということではありません。信仰生活の中でこそ、嘆くことがあるのです。どうして主よ?と言わざるを得ないこともあるのです。こういう嘆きは、そもそも信仰があるからこそ生まれるのです。
しかし、信仰者というのは、どこかで神様に期待をしながら嘆いているのです。神様が、必要な物や時を与えてくださる、という信頼する心をどこかに据えながら、嘆くことができるのです。その意味で、信仰を頂いた者の嘆きというのは、神様に期待を置いてなされるものであり、苦難の中で嘆くことで、神への信頼、信仰が成長していくのではないかと思います。
伝道生活15年、幼稚園に関わって13年、毎年のように、何かが起こりました。日々、トラブルや苦難と隣り合わせで生きてきました。前任の牧師のように、頭髪が白くなり、不安で眠れなくなる日々も経験しました。「いつまで主よ」と嘆きたくなる時も多々ありました。そのたびに、私は、信仰者たち、牧師たちによって支えられました。今も生かされ、立ち続けられるのは、仲間や家族、そして、祈りを聞き入れてくださる主によるものに他なりません。解決せずに、終わっていった問題もありましたが、支えられながら問題を乗り越えていくことで、誰かを信じ、神様を信じる心も強められていくようです。嘆きは、信仰を弱めるのではなく、むしろ、成長するチャンスの時なのかもしれません。
|
|
|