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2025.6 須賀 工 (すか たくみ)
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あなたは必ずご覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
不運な人はあなたにすべてをおまかせします。
あなたはみなしごをお助けになります。
(詩編10篇14節)
詩編10篇は、詩人の悲痛な叫びで溢れています。信仰を持つが故の苦しみや悲しみを詩人は味わっているのでありましょう。しかし、詩の全体を読んでみますと、この詩人は悲しみながらも、その心を一心に神に向け、もう神様にしか頼る存在はないのだと叫んでいるようにも読み取ることができます。
神の存在を否定する人の中には、様々な状況を前に、神を憎んでいる人もいます。自分にとって、不都合・不条理な状況の中で、神様を憎まなければいけないわけです。しかし、そもそも、存在しえない「存在」を憎むことは出来ません。要するに、神様の存在を認めない限り、神様を憎むこともできないわけです。この詩人は、神様の存在をしっかりと認め、その神様にすべてを委ねています。その深い信頼と信仰の中で、素直に、今の自分の感情を吐露しているだと言えるのです。これはもはや、信仰の告白ないし、主への賛美とも受け取れるものであると言えるのではないでしょうか。
祈りとは、「神様との交流」という言葉を聴きますが、それだけではなくて、心の扉を開いて、主を迎えることでもあります。主は、今、あなたの心の扉をたたいています。その扉を開くところに祈りの始まりがあるのです。つまり、祈りもまた、主の導き(心をノックする)から生まれるのです。私が祈るから主は聞いてくださるのではなく、主が私達の心に訪れてくださるからこそ、祈りは始まるのです。その意味で、祈ることができるのも、主の憐みによるものであることを覚えたいのです。
教会では、聖書研究祈祷会が、ほぼ毎週行われています。今年は、できるだけ開催することを目指しています。聖書研究では、使徒言行録を読んでいます。現在、ちょうど、読み終えるところまで来ています。次回は、ローマの信徒への手紙を取り上げ、信仰について、更に深めたいと願っています。信仰を深め、祈りを深め、教会と幼稚園の歩みを、主に委ねたいと願っています。ぜひ、主の招きに耳を傾けて頂き、共に祈りに溢れた信仰生活を送りましょう。
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