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2025.2 須賀 工
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わたしは嘆き疲れました。
夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
(詩編6編7節)
神の存在を否定するほどに、神の存在を憎むことがあります。しかし、冷静に考えてみるならば、存在しないものを憎むことは出来ません。神の存在を肯定しなければ、神を憎むことはできないのです。この詩人もまた、神の存在を受け入れることを前提としなければ、神に嘆き疲れることはないのです。
この詩人は、深い痛みを抱えています。しかし、どこか、神の存在を身近に感じながら、次のように歌います。
悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。
主はわたしの泣く声を聞き
主はわたしの嘆きを聞き
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
神を信じるが故の嘆きがここにありますが、神を信じて、新たに歩み出そうとする詩人の信仰が、ここから良く伝わってくるように感じるのです。
近年、失敗を恐れる人が多いと感じます。弱みを見せることを恐れる人も多いように感じます。その原因は、色々と考えられます。挑戦をするよりも、失敗を恐れる感情が先立ってしまい、何もできないという人が多いのかもしれません。「助けて!」と素直にいうことが「恥」であると感じる大人の姿に、子どもが影響をうけてしまっていないでしょうか。私は、「自立」とは「依存」であると考えています。人は独りでは生きられないからです。
信仰が与えられた人は、神に依存をします。自力、我力を捨てて、神だけに嘆き、神に信頼を置いて生きるものです。神が求めているのは、それをすれば安心となる安牌となる儀式ではなく、素直に憐みを求める心なのです。それでいいのです。神は、それを喜びとし、私達にとって、本当に必要なものや道を備えてくださるはずです。そのような神に対する深い信頼があるからこそ、私達は素直に嘆き、悲しみ、失敗すら出来るのです。
(すか たくみ)
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