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2024.12 須賀 工
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(詩編4篇2節)
呼び求めるわたしに答えてください
私の正しさを認めてくださる神よ。
苦難から解き放ってください
憐れんで、祈りを聞いてください。
「憐れんで、祈りを聞いてください」と詩人は叫びます。「祈り」は、主の憐みなくして聞かれないのだと詩人は信じています。この人は、神様の御前において、自分の祈りの貧しさをだれよりも知っていたのかもしれません。
先月、いのり☆フェスティバルが行われ、引き続き、特別伝道礼拝が行われました。東八幡キリスト教会の牧師である奥田知志先生を迎え、奇しくも説教のテーマも「祈り」でありました。誰もが「祈れない」という経験をするのです。そして、その祈りは「沈黙」を生み、「沈黙」に耐えられない人間が行きつく先には「誰か祈ってくれ」「何かをいってくれ」という叫びに変わるのです。そして、祈りは、「神の言葉」「神の問いかけ」へと人を導いていきます。それ故に、「祈り」の本質は、正に「聞く」ことに他ならないということになるのです。
祈りが、神様との交わりであるとするならば、私達が一方的に語る祈りにおいては、交わりは成立していないことになります。大切なことは、祈りの中でも、主の語りに耳を傾けることなのかもしれません。
私達は、祈りにおいても、罪を犯すことがあります。人からでるものは汚れているからです。その意味で、私達の祈りは常に不完全でありましょう。しかし、それで良いのです。大事なことは、その祈りを通して、神様の言葉に耳を傾けることであり、外から(神から)来るものが人を汚すことはなく、むしろ恵みや糧へと変わるのだろうと思うのです。
そして、何よりも、私達の捧げる祈りは、主の憐みによって聞かれているのであって、それ故に、その一つ一つの言葉は決して無駄なものではないのだと思うのです。執り成しの主、イエス・キリストは、私達と神様との間に立って祈りを届け、主は、その祈りの中で、私達に言葉をくださる。こうして、神様との真実で、生きた交わりが生まれ、信仰生活に大きな光が投じられるのです。
祈れない時があっても良いでしょう。御心に適った祈りができなくてもいい。沈黙の中でも、あなたの心の内にある叫びを主は受け止め、それを祈りにかえ、そして、その祈りの中で、語ってくださるのです。
(すか たくみ)
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