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2024.11 須賀 工
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(詩編3篇6節)
身を横たえて眠り
わたしはまた、目覚めます。
主が支えていてくださいます。
「眠る」とは、「安息・休息を取る」ことです。そして、同時に、聖書において「眠る」とは、「主に委ねること」でもあります。つまり、主に委ねて生きることは、私達に安息をもたらすことでもあるのです。逆に「安息・休息」がないと感じられる時、私達人間は、主に委ねるのではなく、自分に物事を委ねすぎてしまっているのかもしれません。
私は、数カ月に一度(数日間)、根拠もなく「不安」に襲われることがあります。実際には、そうでなくても、誰かに責められているような気持ちになったり、失敗するイメージに捕らわれたりします。そういう時期に入ると、何も出来なくなる時もありますし、心が休まらない時もあります。
そういう時は、極力、自分の手の業を捨てて、体を休めます。そして、最低限しなければいけないものだけを手元に残しておきます。それが「説教」です。何も出来なくても、説教の務めだけは残るのです。時には、しんどさを抱えながら説教準備をすることもあります。しかし、そこで御言葉によって癒されていく自分がいることも知れるのです。主は生きておられ、主の御言葉には力がある。私は弱くても、主は強い。心が喜びであふれていきます。他のものを外に置き、ただひたすらに御言葉だけに耳を傾けられるわけですから、気づいたらもう元気なのです。それ故に、私は、このような一種のスランプ状態ですらも、神様が御言葉によって私に安息を与えようとしているきっかけなのだと理解しています。
人間は、土の器のように脆いものです。だから完璧ではありません。時には不安に支配されてしまうこともありますし、心が疲れ果て、安息や平安を感じられない時もあります。その時の解消方法は、人それぞれであるかもしれませんが、無理をせず、手の業を止めて、本当に大切なことだけを手元に残して生きてみると、小さな一歩でも、新たに踏み出せるのではないかとも思うのです。
近年、心を病んでしまう牧師やその家族が増えていると聞き、とても、心を痛めています。牧師という務めは、他人の痛みに寄り添うことはできても、自分の痛みに、他者を寄り添わせることはしません。そのため、痛みを隠したまま孤独になることが多いのだろうと思うのです。あとは、働きすぎです…。正に「忙」は「心を亡くす」と書くわけです。
私は、かねてから牧師のメンタルケアや牧師同士で「助けて!」と言い合える関係構築の重要性を考えてきました。具体的な案はまだ浮かんできませんが、牧師同士でなければ語りえない様々な事柄を、互いに打ち明けられる関係性を年齢や世代関係なく生み出していければと願うものです。そして、共に祈り合い、共に御言葉によって、主に癒していただき、それぞれの務めへと帰っていければと思うのです。
(すか たくみ)
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