牧師コラム

 

第6回 「避けどころ」
2024.10  須賀 工

 子に口づけせよ
 主の憤りを招き、道を失うことのないように。
 主の怒りはまたたくまに燃え上がる。
 
 いかに幸いなことか
 主を避けどころとする人はすべて。
(詩編2編12節)

 聖書によれば、真の神を避けどころとする人はすべて、幸いであると示されています。私達の生活は完全ではありません。それ故に、揺れ動くことがあります。それと同様に、人が作り上げ、人が支配する世界や社会もまた、常に、揺れ動くことがあります。その度に、人は騒ぎ立ち、恐れを抱きます。
 しかし、この世界を造られ、この世界を本当に支配している神は、揺り動かされません。それと同様に、その主から出る真理の言葉もまた、揺れ動くことはありません。人は、この主の下に留まり、この主の御言葉のもとに生きる時、真の平安と希望の中を生き直すことができます。信仰生活とは、その意味で、強い人間になることを目指すのではなく、むしろ、自分の力を捨てて、主の御手の中に飛び込んで、主を避けどころとしつつ、その身を委ねることなのです。
 しかし、私達人間は、自分の弱さをさらけ出すことが苦手です。だから、弱さを隠して、強がった姿を見せようとします。
 あるユーチューバー牧師が、自身のチャンネルにおいて「現代の若者は、加工に見慣れている」というような趣旨のことを語り、強く共感を覚えました。確かに、デジタルネイティブと呼ばれる現代の若者は、フェイクニュースに慣れ、写真加工にも慣れていると言えます。それは見方を変えるならば、形だけの嘘を見抜ける力があるともいえるわけです。「あの牧師は、かっこつけているだけで嘘くさい」「あの牧師の言うことは綺麗ごとで、嘘しかない」と言われる時代なのかもしれません。ただそれは、同時に、私達の信仰の本質が、伝道対象とする若者たちを前にしてもまた問われているともいえるのです。
 これからの時代は、もう少々、肩の力を抜いて、ありのままの姿で、信仰生活を送ることがむしろ、若者たちに対しては、魅力的で、落ち着くのかもしれませんね。勿論、そればかりでは、教会は秩序を失ってしまいますから、ほどほどに、ということでしょうが。
ただ、私達が、神様の御前で、自らの弱さをさらけ出し、主を避けどころとして生きることで、現代社会のあらゆる場面で、自分自身を見失いかけている若者に対して、ここなら素の自分でいて良いのだ、この避けどころの中にあって、自分らしくいて良いのだという、安心感のようなものを指し示す、よいきっかけにもなるのかしれません。
いずれにせよ、信仰とは、強さを得ることではなく、弱い自分をさらけ出し、真の強い御方である主に、その身を委ねて生きることです。それ故に、私達は、無理をする必要はありませんし、完璧を目指す必要もないのです。欠けがあってもいいのです。それもまた、私達の大切な部分であり、自分の力以上のことは、私達をお造りになられた神にお任せしたらよいのです。

(すか たくみ)


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