今月の特集題
  
-神の業を見る-

私は神の神殿




自分の体で神の栄光を現す
坂戸 愛
 『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。』(コリントの信徒への手紙一 6章19~20節)
 今回のテーマを頂いた私は、頭を抱えました。あなたは神の神殿ですよと言われて直ぐに「ハイ!私は神の神殿です!」と即答出来ない、弱気で逃げ腰な自分を認めてしまったからです。何故自信が無いのでしょうか。「神殿」という言葉のイメージが神聖にして厳粛なもので、自分はそれにそぐわない感じがします。けれど御霊の器として「いいえ、私が神の神殿なんてそんな…」などと自分を否定することは、かえって主を、御言葉をも否定してしまう事になってしまいます。謙遜しているつもりが全く主に委ねられていないのです。これはとんだ思い上がりです。
 私達はこの世に生を受けた瞬間から他と競わされ争って常に優位に立ち続けなければならないという、厳しい成果主義の下に生きてきました。救われた後であっても、それは決して無関係ではいられません。しかし教会は唯一、安心して心をさらけ出し主と向き合える場所です。教会の中まで、体に染み込んだこの世の価値観や他者との比較を持ち込む事は意味の無い事です。
 『賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。』(コリントの信徒への手紙一 12章4節)教会の中で、兄弟姉妹方が各々素晴らしいご奉仕をされている。それはそれで感謝して受ければ良く、勝手に卑屈になったり、自信を失う必要はありませんでした。せっかく主が贖って下さったこの身(神殿)を、自分でふさわしくないものにしてしまっていました。贖うとは「代価を払って買い取って」、主が私の為に犠牲を払って下さったという事です。…私が立派な神殿でないことなど、主は初めからとうに御存知であられました。勝手に他の神殿と比較し〈こんなみすぼらしい神殿なんて・・・〉と愚かにも呟く私に、主は〈あなたにはそれで充分なのだ。〉〈わたしの目にはあなたは価(あたい)高く、貴く、わたしはあなたを愛し〉ていると仰って下さいました。自分で必死に頑張る必要などありませんでした、主御自身が私を聖くして下さるからです。
 何という圧倒的な愛、何というお恵み。頭を抱えて悩んでいたはずが、いつの間にか神様からの大きな祝福を受け取っていました。主よ、感謝します! ハレルヤ!

(さかと あい)


十四カ月が経ち思っていること
山崎 哲
 私の生涯で忘れられるはずもない洗礼を石橋先生にお授け頂いて、早くも十四カ月が過ぎました。
 深く感謝に堪えません。  
 しかしながらその間に越谷教会で礼拝を守れたのはたった二回です。いくら遠方とは言え、また、業務上の都合で日曜出勤が多く後日リモートで礼拝に参加しているつもりと言ってみても、言い訳に過ぎないと少なくとも反省だけはしております。どうかお許しください。
 洗礼を受け聖書を読むようになって、自分の心に明確な変化がありました。というほど大それたことではないのですが・・・聖書を学んでみたいと思うようになったことと、常日頃から心が穏やかになったこと、あらゆることに感謝する様になったことです。
 学びたいと思う理由は、聖書が私に伝えよう、教えてくださろうとしていることは何なのか。人生の長い時間をかけてこれから学んで参りたいと思いますが、それが信仰の仕方として誤りではないかどうか?初めての私は自問できても自答はできません。
 いま思うことは、頭でばかり考えないで越谷教会へもっと通い皆様と共に礼拝し、神様を賛美する空気から感じていかなければならないのだろうということです。 
 今回のテーマが「神の神殿」と伺った時に思い浮かんだのが、「ソロモンの神殿」だったどうしようもない信者ですが、日々仕事に明け暮れながらも前述の通り穏やかな心と感謝の念を持って暮らせるようになったのは、これこそきっとイエス様のお導きのお陰だと信じ感謝しております。
 礼拝に出席させて頂く際はどうぞ宜しくお願い申し上げます。
          宮城県仙台市
(やまざき さとし)

越谷教会月報みつばさ2022年7月号特集
「私は神の神殿」より



特 集