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奥田 尚子 |
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」
(詩編133編1節)
これは、2004年度の主題聖句である。
当時は、この通り礼拝堂に肩を寄せ合って座り、共に礼拝を守るのは当たり前の姿だった。しかし、2020年から新型コロナウイルスの感染拡大によって、すっかり様変わりしてしまった。
信仰を持ち、受洗した時から、私たちは「教会」に所属することになる。「教会」に自分の居場所があるのは、自分にとっての平安であり、心の拠りどころである。
2020年4月、突然、教会での礼拝出席が出来なくなったとき、愕然とし、悲しさと怒りをさえ感じた。自分の生活の中心であった場所に入ることを、拒否された感がしたのだ。
その思いは勿論正しくない。
私は、週に二回はプールに行く。200メートル水中ウォークしたあと、まず蹴伸びをしてみる。体幹がしっかりしている自覚が持てる日は、傾くことなく真直ぐに浮く。何となく体が落ち着かないときは、左右どちらかにぶれる。ひどいときは、アクロバット飛行をする航空機のように、くるりと転回しそうになる。体のバランスがとれていないということ。
心のバランスは如何なのだろう。
週日、いろいろあって、不安定になった心のバランスを正常に戻すために、ひとりよがりにならないために、私は教会に行く。中学生の時から何十年と通ってきた教会の聖日礼拝に出席出来ない!
「主の祈り」を唱え、交読文を唱和し、信仰告白の文を唱える。讃美歌を歌う。そのとき礼拝堂にみなの声が集まって、大河のようにゆれる。そのうねりの中に埋もれて、何という感動を味わえるか。「祝祷」を受けるときの身内に満たされる感動。それらを奪われてしまったのだ。
あれから二年経った。少しずつ元の生活に戻れそうな気配を感じる。否「元の」ではなく、再生の道へと開かれる予感がする。「汝、心を騒がすな」といわれているのに、たくさん心を騒がせてきた。
回復でも再帰でもなく、再生への道を勇んで進もう!
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(おくだ ひさこ)
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角田あゆみ
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今回は、私がこの43年間、神の宮である教会に繋がり続けることができた体験をお話ししたいと思います。
私は、両親がクリスチャンで、生まれた時からバプテスト派の教会に通っておりました。
4歳の頃、2段ベッドから落ちて前歯を折り、その後なかなか折れたところの永久歯が生えてこないことを悩んでいた私は、真剣に「神様、どうか前歯が生えてきますように。生えてきたら神様を信じます」と毎日お祈りしていたことを覚えています。今考えると、なんて自分勝手なお祈りだったのかと呆れてしまいます。幼い頃は毎日、神様と会話するようなお祈りをしていたということではあるのですが…。
中学校の時には、弱い者いじめをするクラスメイトを注意したことで、次の日から自分も同じいじめを受けるようになりました。自分の使っているロッカーを開けることができなくなるまで蹴られたり、机に入っている物を全て床に落とされ、机を逆さまに置かれたり、暴言を吐かれたり。しかし、そんな苦しい時に私を支えてくれたのは、イエス様のみ言葉でした。
高校の進路を考えている時、教会の友人が留学する話を聞きました。私は後先考えずに「私もアメリカに行きたい!」と言っていました。私が3年間通った高校は、ホーリネスの学校で、とても規則が厳しく、安息日は、アイロンかけさえ許されず、女子はズボンの着用は禁止で、ひざ下まであるスカートを着なくてはいけませんでした。何時代にタイムスリップしたのかな?というような学校でしたが、それでも毎朝授業前に礼拝し、夕方には祈祷会をして、神様を近くに感じることができた3年間だったと思います。
バプテスト連盟、ホーリネス、そして現在は越谷教会に在籍させていただいて思うことは、宗派は違えど唯一の神を信じるということに変わりはなく、これまでの私の人生を支えてくれたのは聖書のみ言葉と教会、そして教会の友人だったということです。
私がこれまで信仰に支えられ、教会に繋がってくることができたことは、神様の恵み以外の何ものでもないと感謝しています。
教会は、イエス様を信じ礼拝する人々の群れですから、私もその一人として、神様の期待を裏切ることのないよう、み言葉の内に留って、これからも歩み続けてまいります。
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(つのだ あゆみ)
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越谷教会月報みつばさ2022年6月号特集
「教会は神の宮」より
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