今月の特集題
  
-苦難の中の喜び-

新しくされる喜び




清い人になれれば
石橋由美子
 「新しくされる喜び」との内容を聞いて、即、私はキリスト者として清い人になりたいと思ったのです。私は、夫である牧師に毎回「僕の話を聞きなさい」と、この51年間言われ続けています。何故なら、せっかちの上に早とちりな私の性格故なのです。思い返せば「どうしようもない私だ!」と一瞬凄く落ち込むのですが、一晩寝て起きると何故か清々しい朝の太陽に会えて立ち上がれるのです。
 最近の事、日曜日の朝早く目覚めたので礼拝のテキストを読みました。読み始めたところ、段々、高度難聴の私の耳に分かる自分の声に気付き気持ちが軽快になったのです。教会に向かい礼拝が奏楽と共に始まると自然にこの身にひそかに全てが聞えてくる様でした。今さらですが私は、高校三年生のペンテコステに受洗して以来、55年も毎週礼拝で御言葉を聞き続けてきたのです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二5章17節)の御言葉どおり、この身に起こっても不思議はないと思いました。
 以下、心の友の山中正雄牧師の言葉です。「信仰を得るということは、人間同士が互いに交わる横軸に、創造者とつながる縦軸が加わることです。住む世界が平面(二次元)から立体(三次元)へと変化します。」さらに今年のクリスマス礼拝での石橋牧師の言葉を引用します。「ページェント礼拝で年長の子ども達が力強く『いと高き所には栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』とこの御言葉を語り、そしてハレルヤアーメンの神を賛美する歌を歌ってページェント礼拝が終わります。涙が出る程、感動しました。全く新しい世界が創造されたのです」と聞き、私も感動した記憶が甦りました。
 クリスマスは、未熟で弱くて今にも消えそうな私の信仰の火を燃やし続けてくれるのです。ある時、教友が「私達の一年はクリスマスから始まるのよ!」と教えて下さいました。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは・・・あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが 、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。・・・あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」(ローマの信徒への手紙6章6~14節)
 主の栄光を伝える為に生きる私たちなのに自分の事ばかりの祈りしか祈れず、どうしてこんなに思い煩いが多いのでしょう?日々悔い改めて清くされたいのです。
 さあクリスマスで新しい御言葉を頂いたのですから、もう大丈夫、日々感謝して参ります。
(いしばし ゆみこ)


全ての民を私の弟子に
鈴木 洋史
 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイによる福音書28章19・20節)
 石橋牧師や棚橋牧師が祝祷に使われている箇所(別バージョンもありますが)ですが、この言葉を伺う度に、クリスチャンの一人としてどのようにしてキリスト教を広めるべきか考えさせられます。
 職場で私は、クリスチャンであることを公言していますが、世間一般の人は驚くくらいキリスト教について知りません。
 カソリックとプロテスタント、牧師と神父、旧約聖書と新約聖書の違いはもちろん、
アダムとイブや映画でも有名な十戒の話が、聖書の中の話であることさえも知らない人がほとんどです。
 このような中にあっては、普段の会話中にキリスト教の話を加えることさえ困難です。せいぜいクリスマスに教会で行われるキャンドル・サービスや母校青学の点火式の凄さを語り、行くことを薦める程度ですが、コロナ禍の今日、それさえも困難です。
 その点、越谷幼稚園に通っていた我が子たちは、比較的良く礼拝(夕礼拝)に出席してくれます。
 石橋牧師が度々おっしゃっている通り、附属幼稚園の存在というのは本当に大きいと思います。
 生意気なことを言っていますが、私のような者(妻からは良くひねくれ者と言われています)でさえ、長女の縁で再び(約20年ぶりに)礼拝に出席するようになり、受洗する運びとなったのですから、越谷幼稚園には感謝です。
 夕礼拝で毎回司会か当番を奉仕させて頂いていますと、これまた生意気なことですが礼拝出席人数が非常に気になります。
 普段は大体10名を数名こえる程度なのですが、この厳冬期(帰りには「雪の進軍」が歌いたくなる寒さ)には礼拝出席者も減少傾向になります。
 棚橋牧師や清水伝道師がいつも素晴らしい説教をご準備なさっておりますので、一人でも多くの方に出席して欲しいといつも思っています。
 夕礼拝には、他教会の信徒の方が出席されることが度々あります。話を伺うと昼間に用事があったので、越谷教会の夕礼拝に参加したという人ばかりです。
 このような話を伺うと、夕礼拝に奉仕させて貰っている者として非常に嬉しくなります。
 礼拝出席は、私達クリスチャンにとって新たにされる喜びを感じる大切な場所です。
また礼拝は、まだ受洗されていない人が喜びを感じることが出来るようになる「チャンスの場」でもあると考えます。
 私は微力ながらこれからも、礼拝を始めとする様々な奉仕を通じて自らが新たにされる喜びを感じつつ、他の多くの人々が喜びを感じる手助けをしていきたいです。
(すずき ひろし)

越谷教会月報みつばさ2022年1月号特集
「新しくされる喜び」より



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