今月の特集題
  
-苦難の中の喜び-

主の業を見る




最も小さい者の一人に
田口 則彰
 みつばさの原稿を書くことは、私の信仰を見つめ直す機会を与えてくれます。主の業を見るとはどのようなことだろうと考えた時、それは私が信仰を持つ前と持った後で大きく異なることが分かりました。
 信仰を持つ前の私は、神様の様な特別な存在はたぶんいるのだろうと漠然と思ってはいましたが、それが何なのか本当の神様を知ろうとはせず、目に見えるものしか信じませんでした。そんな私にそれならばと神様は、素晴らしい景色を見せてくださいました。低い雲で町の光を完全に閉ざして見せて下さったプラネタリウムを超える満天の星空、手で触れられそうな距離で見せて下さったはるか彼方まで広がる雲海、極めつけは、車を運転中に虹の袂をとおりぬけた時でした。車内が七色の粒子状の光に包まれ言葉で言い表せられない程の美しい瞬間を見せてくださいました。しかし信仰を持っていなかった私には、どんなに素晴らしい景色を見ても神様の御業と思うことなく、神様を信じるには至りませんでした。律法学者やパリサイ人は、イエス様にしるしを見せてくださいとせまりましたが、たぶんその場でどんなしるしを見せていただいても、イエス様をメシアとして信じることはなかったのだろうなとも思いました。心を閉じたままでは神様の御業を見ても、御業として見ることが出来ないのでしょう。
 では信仰を持った私にとって神様の御業とは何なのか、それは教会の兄弟姉妹の働きだと思いました。私は信仰心に乏しく、「あなたがたは世の光である。」(マタイによる福音書5章14節)とイエス様に言われる様な、世を照らす光にはなれておりませんが、教会の兄弟姉妹の愛ある働きはこの世を照らす光となっておられます。
 私は当番の献金の時と、礼拝の司会の奉仕の時にお祈りをする機会を頂いておりますが、言葉に詰まってしまったり、独りよがりなお祈りになってしまったり、上手くお祈りが出来ないと酷く後悔してしまいます。そんな時に、必ずと言っていいほど兄弟姉妹が「良いお祈りでした」と声を掛けてくださいます。私は言葉で何度もこころを救われました。神様がお声を掛けてくださったかの様に兄弟姉妹をとおして光が私を照らすのです。神様の御業を見るのです。そして私は神様に感謝し、主イエスの体である教会の一部として兄弟姉妹の様に愛を持った働きが出来る様に心から祈ります。『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイによる福音書25章40節)このマタイの福音書の言葉が実現したのだと思えるのです。
(たぐち のりあき)


招 き
根本 薫
 人生にはいくつもの岐路があり、そこで何を選択するのかによってその後の道が大きく分かれていきます。その岐路において、私は神様の優しくて大きな力によって教会に引き寄せていただきました。
 中学三年生当時、高校受験目前になっても何だか気分が乗らずに志望校を決められなかった私に、母が敬和学園という選択肢を提示しました。越谷教会からも数人が進学していた新潟のミッションスクールだということ程度しか知らず、それまで全く進学先に考えたこともなかった敬和学園でしたが、心が言いようもなく強く惹きつけられて進学先に決めました。何故あんなにあっさり決意したのか、今となっては不思議です。何しろ、当時の私は敬和学園での寮生活を山小屋のような過酷なものだと勝手に思い込み、「電気は自由に使えないだろうから乾電池をたくさん用意しよう」、「暖房もあまりないだろうからカイロや雪山用の防寒具が必要だな」などと考えていたのです。中学生の思い込みは恐ろしいものです。呆れるほどの無知です。しかし、それでも全く迷いませんでした。あの蛮勇ともいえる決意は何だったのでしょう(その後すぐに洗濯機も暖房も給湯器もあると知りました)。
 敬和学園での生活は、学校での毎日の礼拝に加え、寮生活でも毎週決まった夜に有志が集まって讃美歌を歌う会や、学校敷地内に住んでいる牧師先生宅での聖書勉強会があり(毎回牧師夫人手作りのお菓子が出るのが楽しみでした)、友達と参加してはお喋りに花を咲かせ、とても楽しく充実していました。
 寮生活では毎晩黙って机に向かう自習時間がありました。高校二年生のある晩の自習時間中のことです。突然何の脈絡もなく「すぐに受洗しなければ!」との思いに駆られました。敬和学園への進学を決意した時のような強い思いです。もう洗礼のことしか考えられません。自習時間が終わるのももどかしく、走って寮内の公衆電話を掴むと、母に洗礼を受けたいと話し、その年のクリスマスに越谷教会で石橋先生から洗礼を授けていただくことになりました。
 感謝です。
 敬和学園への進学を決意した時も、洗礼を受けたいと思った時も、自分の思いではなく大きな流れに心地よく乗っているような感覚だったように思います。
 こんなにも力強く私を招いてくださる神様に安心して全てを委ねられるようになりたいのですが、きっと弱い私は何度も迷ってしまうでしょう。そんな時もこれまでのように、神様が呼び戻して捉まえてくださると思っています。せめてその呼び声には気付ける者でありたいです。
(ねもと かおる)

越谷教会月報みつばさ2021年11月号特集
「主の業を見る」より



特 集