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清水 広幸
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キャンドルサーヴィスの準備をしないクリスマスは初めてだった。この時期は委員会を重ね、多くの奉仕者やゲストと作り上げる越谷教会らしい素敵な伝道礼拝。それが今年出来なかった。それほどに新型コロナウイルスの影響は大きく、感染者数は収束どころか急激に拡大の一途をたどっている。
東京都の一日当たりの陽性者数は800人を超えた。その勢いは恐怖さえ感じる。更にその背後には感染して苦しむ方や、濃厚接触者認定を受けて不安の中で生活を強いられる方々の二重の苦しみがあることを知らされた。感染の恐怖と周囲の無理解、心無い発言で傷つくのだと。
今年の聖学院中高全校クリスマス礼拝は放送礼拝で実施した。約1000人収容のチャペルではなくHRでの礼拝だ。賛美も聞くだけで歌わないので少し寂しい。目の前にはマイクと音量計・・・。学校現場を預かる者の一人として、最優先事項は生徒や教職員の命と安全を守り、学びを止めないことだ。仕方無いがそれでも私は、礼拝は対面が一番、同じ空間で同じ呼吸で共に守る・・・これが一番だと思っていたら、その日のチャプレンの奨励は『恐れるな!』だった。羊飼いが夜通し番をしている情景を見事に伝え、寒さや不安、戸惑いの中で出会うクリスマスの喜びのメッセージだった。私は司会をしながらそれを放送で伝えた。
これで生徒に届いたのかな~とモヤモヤしながら20分の礼拝を終えて廊下に出た。直後に出会ったある生徒から「今日の放送礼拝良かったですよ!」と感想を言われて「そう、どうもありがとうね」なんて急転直下、嬉しくなって生徒に同意した。単純だ。礼拝はこうあるべきなどと決めつけていたのかもしれないと生徒から教わった。まさに時が良くても悪くても、御言葉を伝え続けることが大切なのだと気付かされた。
キャンドルサーヴィスは無くとも、想いを馳せ、味わい深く、心を静めていつもとは少し違う礼拝でも神様の恵みを感じている方もきっと多いに違いない。そして今までを振り返る良い機会なのかもしれない。
今後もしばらくの間は、密を避け、不安や不自由さとは無縁では無いのだろう。マイナスや否定的なイメージが多い中だが、それでも私たちは生かされ守られて新年を迎えることが出来ることを神様に感謝したい。神様は、苦しみや不安を感じる人々の中に来て下さり一緒にいて下さることを信じ、また新しい歩みを始めたい。 |
(しみず ひろゆき)
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橋爪 協子
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1月号にはふさわしくない書き出しになりそうで怖い。
この一年の間、夫、息子の義父母、姉の夫、敬愛する高校時代の友二人、活動を共にした仲間を失った。愛する多くの人との別れ。私もいずれは御許に召されると信じつつ、この世の思いが強く、死の恐怖に脅かされる日々だった。
眠りの時、目覚めの時「今日も生きています。感謝です」の祈りの日々が続いて。まさに、生きることで、死を思う日々。
高校生の頃、福永武彦著「草の花」(新潮文庫)に心奪われ、友と回し読みした。
「人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
(ペトロの手紙一 1章24・25節)
池澤夏樹著「また会う日まで」を新聞連載で読んでいる。その冒頭が、この聖句。池澤夏樹さんは、福永武彦さんの息子。
この聖句は親子の絆。
ここに登場する「わたし」はこの世での日々を間もなく終わろうとしている。
『主の前に立った時に自分が生きた毎日毎月毎年をきちんと報告できるよう生涯を整理しておかなければならないと思っている』(著者原文)。
コロナ禍で悶々とした日々が続いていた。幼稚園、学校がお休みになった。
ホームレスの方たちが拾ったマスクや同じマスクを使っていると新聞で読んだ。
芸術関係の活動ができなくなった。
私にできることはないのか。悶々の原因だ。
人一倍不器用な私がマスク作りを始めた。近所の子ども達に道路で本の読み聞かせを。何十年も会員になっている劇団、その他必要とするところへ細やかな支援。
これだけでいいの? 今も悶々としている。神様ごめんなさい。コロナ、収まったら、もう少し何かします。そのために健康が大切。食生活、手抜きしない、体を鍛える(何とジムに行き始めた)、優しさを育てる。特に脳を鍛える。若い時には何も考えないで歩いていた、作っていた。
今は、日々の生活すべてに(転ばない、食器を落とさない等)危険回避には脳の働きが必須だと実感。
おばあちゃんは、永遠に変わることのない主の言葉を信じもう少し生きますね。 |
(はしづめ きょうこ)
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越谷教会月報みつばさ2021年1月号特集
「新しい年を生かす力」より
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