今月の特集題
  
-試練と喜び-

主よいつまでですか




少しずつ前へ
小菅 昌子
 いつまで続くかわからないコロナ自粛の中、9月末から10月3日まで「聖路加画廊」でアトリエの個展を開催した。
 お知らせは内々の知人や友人、半年以上アトリエのパステル画教室に参加できないでいる都内に住んでいる生徒たち、そしてホームページ掲載に絞った。
 開催を決断したのは、シャンソンを歌うことを生活の一部としている知人が7月末にライブコンサートを開いたことが大きい。
 自粛が都内で段階的に解除になった直後のコンサートで、例年満席の会場は定員を半分以下にし、出来る限りの感染予防対策をとっての開幕。昨年末に癌が発覚し、抗癌剤治療を続けていたが、他の治療に切り替えて歌い続けた「愛」の歌は、明るくのびやかで美しかった。
 彼女は自分のことより、わたしの道中を心配してくれた。
 私は私の判断であなたの歌を聴きたいと思ったから来た。来てよかった。と伝えると、めちゃくちゃ喜んでくれた。
 そう、心配することはない。皆、自分の責任において行動してくれる。私も、余計な気遣いはやめようと決めた。
 「聖路加画廊」はレストランへの通路でもあり、思った以上に通院の患者さんたちが足を止めて絵をご覧になり、診察を待つ間、会期中何人もの方がお話しをして行かれた。
 半年ぶりに家から出たという高齢者枠の生徒との再会や、古い友人たちとのおしゃべり。一週間は瞬く間に過ぎ、覚悟していた赤字もなんとか解消できた。
 今回来ないことを選んだ人たちからも、「開催の嬉しいお知らせありがとう」と、返信がきたことが、何より嬉しかった。
 神さまはいじわるな方で、人間を試練に遭わせるのが大好き。「主の祈り」を毎朝祈っても、わたしが少し、ぼーっとし始めると試練の衝撃を与える。 
 順天堂の医師が、若い人たちの自殺者が増えないよう、重篤な患者に対しては手厚い治療をし、軽症者との医療を振り分けながら、日常生活に徐々に戻っていくようにと話していたが、身近でも自ら命を絶とうとした人がいた。
 晴れ渡ることの無い空が覆っているようなこの空気を、どう転換できるか。神さまに試されているような気がする。
 明るい方を向いて、少しずつ前へ。
(こすげ まさこ)


祈りの根幹
坂戸 愛
 「主よ、いつまでですか」このように祈る時、人はどのような心境でしょうか。現状に不満があり、耐えられない。楽になりたい。助けを待ち望み、今の苦しい状況から助け出して欲しい…。言葉で表すとこのような感じでしょうか。
 私にはもう何年も、祈りを積んでいる課題があります。それは私達夫婦に子を授かる事、そして家族(夫)が救われる事ですが、どちらも未だかなえられていません。
 祈ってもきかれないのは何故なのか。御心はどこにあるのですか。
 切実にそして真剣に祈っているにも関わらず祈りがきかれない。となると段々と願いがかなえられない状況に慣れ、甘んじ、ついには諦めモードで祈り続けるのに疲れてしまいます。
 また、主の御心がどこにあるのか疑心暗鬼にもなります。
 信仰の足場がしっかりしていない為に自分の事を棚に上げて、いつまでですかと主を責めてしまうのです。そんな時に、主の御心を力づくで捻じ曲げてでも今すぐに自分の思い通りの結果を得たい、醜い自己中心の罪に気付かされ、愕然とします。如何に信仰に依る忍耐が足りない者かと、只々主の御前に恥じ入るばかりです。
 「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」(詩編121編1節)
 主は何時でも、私に語って下さっています。みことばを通じて、また信仰の諸先輩方との貴重な交わりを通して、理解の遅い私にも分かるように何度も、何度でも。
 情けなく愚痴をこぼす私に、石橋牧師は『祈りの幅を自分で狭めないように』と諭してくださいました。『答えがどうであれ、今起こっている事は後に全て良かったと言えるようになるから』と。それを聞いて、自己憐憫に陥るあまりすっかり主が見えなくなっていたことに気付きました。自分で自分をこうでなければいけない、何者かにならなければいけないと思い込み、枠に押し込めようと焦っていたのです。
 祈りの幅を狭めない。主の御用意されている、はるかに豊かではるかに深い御計画を、人の欲や感情で勝手に矮小化してはならない。これはどの事柄にも言える祈りの根幹であると言えましょう。そしてこの先、私がどのような道を進むのか自分では与り知らぬことですが、のちに振り返って全て良かった、と言える人生であるように日々を歩んでいきたいと改めて思うとともに、そのことに気付かせて頂けたことは感謝な出来事でした。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6章33・34節)       
(さかと あい)

越谷教会月報みつばさ2020年11月号特集
「主よいつまでですか」より



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