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荻田香世子
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「クルマぶつけちゃったよ」一年前の一月末、仕事に出かけていた夫が車の左前輪をザックリ割れるくらいパンクさせて帰ってきました。様子を聞くと、身体が左へ左へと曲がってしまい、両手でシャツのボタンが留められない、話すとき舌がもつれる等の症状がある様でした。埼玉県の救急コールセンターに電話をし、病状を伝え、グーパーが出来ない、両腕を地面と水平にし目を瞑って一分後左腕が下がる等問診頂き、相談員の要請ですぐに救急で病院へ行きました。診断の結果脳梗塞と判明、即入院、治療をしました。
入院して四日目、石橋牧師が病院にお祈りに来て下さり、共に祈りを合わせました。その後雑談の中で、「両手が同じようにグーパーできないんですよ」「やってみて」と石橋牧師。すると前日まで出来なかったグーパーが突然両手共同じ速さで動いたのです。
「『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。」(マタイ12章13節)
その後、カテーテル手術で首の細くなった血管にステントを入れ、無事完治、退院することが出来ました。
しかしながら、一難去ってまた一難、夫の艱苦の時は続きます。今年五月に食道癌が発覚し、只今入院治療中なのです。本人はいたって元気で「豪華客船の3等(なぜ3等なのかは謎です!)にいるみたい」だと病院生活も自分なりに過ごしているようです。ただコロナ禍のため、家族でも病室、病棟に立ち入ることが出来ません。唯々自宅で祈り主に委ねるのみです。
「災いが彼に臨むとき/その叫びを神は聞いてくださるだろうか。全能者によって喜びを得/常に神を呼び求めることができるだろうか。」(ヨブ記27章9・10節)
この厳しい災禍の時、多くの方々が辛い思いを抱えておられることと拝察し、心痛むものです。どんなに困難な時であろうと、神様を祈り求めていけたらと望むものです。主は最善のことを最善の時に行ってくださる方ですから、求めに応じて下さり、突然信じられないかたちで、救いの御手を伸ばして下さることでしょう。祈りつつ。
「平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」(イザヤ書57章19節) |
(おぎた かよこ)
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谷口 則之
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「死にたくない」という気持ちは、生き物としてなければならないものだろう。
野に咲く花でさえ生き伸びるために魅力的な形や色、香りまで身に付けて咲いている。花には、目も鼻もないのに、どうしてそれらを得たのか不思議でならない。
生きるのに必死だったからこそ神様に与えられた、それ以外に答えが見出せない。
ところで、現代日本人は、どうだろうか。
「気楽」「簡単」「便利」「快適」の飽くなき追及で「生きる意欲」を失ったように僕の目には、映っている。
日本の自殺死亡率は、全世界でワースト6位だ。
「不便」「大変」を親子キャンプでたくさん子どもに体験させようという活動をしてきたが、コロナ騒ぎで突然中断した。
この活動は、神様に受け入れてもらえないのだろうか・・・こんな自問自答が続く。そこで気付いたことがある。それは、僕自身、必死に活動を展開しようという「気持ち」が失せていたことを。
僕の神様は、なんて凄いことを気付かさせてくれるのだろうか。
必死に取り組むことであらゆることが成就する。活動してきて十年以上、いつの間にか流れ作業になっていた。
作業の効率化が、知らず知らずに形骸化を招く。
それだけではない。僕は、64年も生きているうちに、いつの間にか「生きているのが当り前」になっていた。
それで、目覚ましにこのコロナ騒ぎを神様が与えてくださった。こう思った時に僕だけではなく人類のすべてに「物質主義」への反省を促してくださっている。
こういうふうにも思えてきた。
思っただけで行動に移さないのは、嫌いだ。
日本政府のありがたい補助のお蔭で今、生き延びられているけど、それだけに甘んじていてはいけない。64歳になって僕は、必死に生きるためにバイトを始めた。慣れない作業で怒られっぱなしのバイト。
僕は、自分から「気楽」を乗り越えるためにバイトをする。
人生の凄まじいドンデン返し。ストラッグルだ。なんとなく気楽に生きるのではなく、この葛藤があるからこそ人生が面白くなる。どうだろうか、僕の神様は、なんて愉快な脚本家なのだろうか。
僕は、この台本をどう演出できるのか、腕の見せ所だ。少なくとも心の成長にはなる。この一瞬を生きている実感を大いに喜んでクランクインしようか。
さぁ、どちら様も新たな挑戦のチャンスだ。
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(たにぐち のりゆき)
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越谷教会月報みつばさ2020年9月号特集
「突然その時が」より
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