今月の特集題
  主の光に照らされて

主の光が心に満たされて




アガパオーとフィレオー
関口 幸子
  わたしを愛するか、この言葉はヨハネによる福音書21章15〜17節からの復活されたイエス様がペトロに三度尋ねた言葉です。
ここでは「愛する」という二種類の言葉が使われていることはよく知られています。イエス様は「アガパオー」を二回使われました。「アガペー」神の愛で愛するか、とペトロに尋ねたのです。ところがペトロは三回とも「フィレオー」友愛、ギブ&テイクの愛で愛する、と答えているのです。
一回目「アガパオー」 「フィレオー」
二回目「アガパオー」 「フィレオー」 
三回目「フィレオー」 「フィレオー」
 三回目はイエス様がペトロに合わせて「フィレオー」で尋ねてきたのです。イエス様はペトロの目線まで降りてこられたのです。イエス様に率先して従っていきたいペトロでした。ところが、イエス様は犯罪者として捕らわれてしまいました。その大祭司の屋敷でペトロはイエス様を三度も「知らない」と否認して、裏切ってしまったのです。そのイエス様が三回目には、ペトロの言葉に合わせてきたのです。ペトロはイエス様の言葉に号泣したことでしょう。
 そんな時、私はネットで「フィレオー」を「慕う」と解釈する記事を見つけました。聖書協会共同訳聖書では「フィレオー」を「慕う」として違いを表した、と載っていました。
 そうすると三回目はイエス様がペトロに私を慕っているかと問い、ぺトロはお慕いしています、となります。私は「慕う」の方が伝わりやすいのではないか、と思いました。ところが、後日、聖書協会共同訳聖書を見ると「慕う」とは載っていない、引照にもないのです。再度、ネットの【聖書翻訳の最前線】という記事を確認すると『聖書 聖書協会共同訳 特徴と実例』という冊子には「慕う」というネットの記事がありました。ということは最終的には「慕う」より「愛する」という言葉が選択されたと考えられます。
 ここでのイエス様の「私を愛しているか」というペトロへの問いは私達にも問われている究極の問いだと思います。私達はイエス様を優先して生きているだろうか、ペトロのように自己中心的に過ごしていないだろうか。
 石橋牧師は「キリストに集中しなさい」と言われます。礼拝から礼拝へ、今日も内省しながら礼拝する私達に「あなたは私を愛するか」とイエス様は問われるのです。
 今、自問自答しながらパソコンの原稿用紙のマス目と戦っている私にも「主の愛が心に満たされて」きました。なんと私が戦っていたのではなかった、イエス様が戦っていてくれたのです。こんな恵みの時を涙のうちに感謝します。
(せきぐち ゆきこ)


十字架の御光に照らされて
清水 義尋
 「君は自分の内面ばかり見つめているが、君の救いは十字架の上にあるからね」。
 ある日、夏期伝道実習でお世話になった向日町教会の宮地健一先生からいただいた返信の便りにこんな言葉が記されていた。これは、内村鑑三の師であるジュリアス・シーリーが、信仰に悩む内村に対して送った言葉であるらしい。以来私は、自分の内面の嫌なものに押し潰されそうになったときにこ の言葉を思い出すようにしている。
 神学校生活も四年目に突入し、いよいよ巣立ちの時が近づきつつあるが、学びの日々の中で深められたのは『罪』であった。
 自分が想定していたよりも遥かに根が深く、逃れられないものだということを思い知らされた。単なる道徳的な違反だけではなく、主から離れていることが罪であるということに大きな苦痛を覚えた。
 一日の終わりに祈りながら自分の生活を振り返ると、いつも同じ結論にたどり着いた。今日も神さまから心が離れていた。身体が父に背を向けていた。魂は主を仰ぎ見ようとしていなかった。自分は信仰者として召しを受けていると信じているのに、どうして正しく生きられないのだろう。
 そんなことに思い悩んでいた時、信仰の先達の言葉に貫かれた。私は自分のことばかりに気を取られて、見るべきものを全く見ていなかったのだ。
 主イエスは人間が愚かであることを知っている。罪に抗えないのを分かっている。しかし、だからこそ御自身を捧げてくださった。御自身を十字架にかけることで罪を贖い、復活されることで死に勝利された。人間の罪はイエス様の救いの光を?き消すことは決してできない。罪を傍らに携えたまま、只々自分に与えられた確かな救いだけを見つめて生きること。それこそが罪人の歩みであるのではないだろうか。
 私は神学校の入試試験の小論文で、とある作家の言葉を引用した。6月19日に大量の桜桃が供えられる、あの文士である。
 今一度、私はあの頃の自分の信仰告白に戻りたい。
 どれほど愚かであろうとも、欠落が多くあろうとも、罪深い者であろうとも、そのような自分をいつも変わらず照らし続けてくれる光、私達の主、イエス・キリストの十字架の御光に照らされて、歩み続けたい。そんな願いをもう一度、ひとりの罪人の言葉を借りて、言い表してみたいとおもう。
 迫り来る旅立ちへの不安と、祈りの中で召し出されることへの感謝を込めて
「この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。『私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。』さようなら。」     
(しみず よしひろ)

越谷教会月報みつばさ2019年7月号特集
「主の光が心に満たされて」より



特 集