今月の特集題
  聖書を読んで祈って伝道する

希望の世界へ




普遍のみ言葉を新しい日本語で
舟橋 葉子
 2018年12月に、新しい翻訳の聖書が発行された。聖書協会共同訳である。
 聖書はどんな場合でも同じものを使う。未信者に対して伝道をする時も、古参信徒が礼拝で使う時も、教会学校で子ども達が読む時も、同じ聖書であるところに、翻訳の難しさがある。
 「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指す」方針の下、新共同訳からの改訳ではなく、原文からの新たな翻訳ということになった。
 日本聖書協会は、明治以来およそ30年毎に新訳を発行してきた。明治元訳(文語)、大正改訳(文語)、口語訳、新共同訳、そして今回の聖書協会共同訳である。
 新訳発行が約30年毎であるのには意味がある。30年も経てば、私たちが日常に使う日本語が変化してくる。特に若い世代が使う日本語の変化は著しい。ということは、私たちが今使っている新共同訳世代の日本語は、若い世代にとっては「古い」すなわち「身近ではない」ということにもなる。若い世代に福音を伝えるためには、今生きている日本語を使う必要がある。
 もうひとつの側面は、聖書神学研究の進歩である。死海文書の研究も進み、新たな旧約世界の検証が進んだ。旧約に限らず以前の聖書に採用された語釈が適当ではないと判断される言葉も多くなった。エジプト全土の作物を食べ尽くす昆虫は「いなご」とされてきたが、いなごは日本特有の種を指すので、生物学的により正確な「ばった」に変更された。イメージが違うと戸惑う人も多いかと想像する。
 日本人にとって30年前には身近ではなかった単語が生活の変化によって誰でも知るようになった例もある。薄荷(はっか)はミントに、茴香(ういきょう)はクミンになった。
 個人的に、今回画期的だと思ったのは、数詞にもすべてルビが振ってあることだ。七は「しち」か「なな」か、四は「し」か「よん」か。歴史的な読み方と現実に使われている読み方に乖離があり、礼拝でどの読み方をするか、聖書朗読で迷っていた。
 私は新訳の発行を心から歓迎する気持があるが、私が教会と出会った時の口語訳、越谷教会に導かれてから親しんだ新共同訳にも、捨てがたい愛着がある。格調の高い大正文語訳もまた、折りに触れて読み返したい。
 個人の心に響く翻訳はそれぞれの心にある。それでも世の中は、特に若者は新しい翻訳を必要としているのだと思う。
 新訳による詩編23篇冒頭はこうである。
  主は私の羊飼い
  私は乏しいことがない。
  主は私を緑の野に伏させ
  憩いの汀に伴われる。
(ふなはし ようこ)


響く御言葉
棚橋千恵美
 石橋牧師が最近教団で強調していることを、教団総会議長報告や教団新報のメッセージで読んでいます。言葉を失うところで響く言葉が教会に託されていること、それは「御言葉」この御言葉に希望があり教会に主から委ねられている希望を語ることに集中するということです。
 2018年は大災害が各地で起こり大きな被害がもたらされました。その凄まじい破壊を見て「言葉を失います」、大災害のみならず、わたくしたちの生活においても、愛する者を失って言葉を失います。
 大塚清美さんは死に向かうそのところで大きな証しをしてくださいました。
 夫の伸二さんは、突然、病院で「がんでステージ4、余命4ヶ月」と宣告されて、言葉を失う経験をしました。病院から帰ると床屋にいって坊主になり、お仕事を辞めて、介護に専念されました。この伸二さんの姿に感動しました。
 石橋牧師から「これから大塚清美さんの洗礼式をするために静岡県立がんセンターに行く。急いで洗礼式と聖餐式の準備をするように」と言われ、由美子先生と三人で病院に行きました。
 その感動は忘れられません、洗礼式で清美さんのお顔が輝いたのです。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(コリントの信徒への手紙一15章52節)の御言葉が語られ、洗礼式をしました。
 死を思う床で、言葉を失う現実の中で「御言葉が語られ、洗礼式で十字架と復活の命に与る洗礼式をしました。そして、その床で顔が輝いたのです。復活の希望に包まれたのです。
どのような状況にあっても希望をもって生きる力を与えられる「御言葉を語る使命」が与えられていることを、畏れを持って受け止め、「御言葉を御言葉」として語る説教者として立たせていただきたいと願っています。    
(たなはし ちえみ)

越谷教会月報みつばさ2019年4月号特集
「希望の世界に」より



特 集