今月の特集題 聖書を読んで祈って伝道する
み言葉に慰められ
李 文慧 |
ダンボールの側で(転居したばかり)みつばさ原稿を書いている私は、当初は辞退したいとお願いしましたが、却下されました(笑)。 しかし、今は、このチャンスを与えて下さった事を本当に嬉しく思っています。なぜなら、このような環境の中で文章を書くのが二度と来ないと思っているからです。また、何より今年は私が洗礼を受けてから15年目であり、且つ人生の節目として還暦にもなり、この特別な年に主イエスと主が与えて下さった恵みに感謝を献げなければならないと、また牧師先生達と兄弟姉妹達とこの喜びを分かち合いたいとも思い、「飲水思源」(※)という心境でおります。 日々の生活の中での出来事ですが、昨年四月中旬に母が家の中で転倒し、腰が家具の角にぶつかった後、頭も床に打ち付けました。緊急入院して脊椎の圧縮性骨折と診断され、手術をしました。手術自体は難しくないですが、手術の後で消化系統も排泄系統もすべて乱れてしまい、食べる事も小便をする事もできず、しかも老人認知症まで発症していました。いつも弱音を吐かない医者の姉がその時ばかりは電話の向こうで泣き崩れました。どうしたらよいのか分からなくて、私も唯唯一緒に泣いてばかりでした。北京に飛んで行く準備もしました。幸い、クリスチャンになってから、試練に遭った時等あらゆる局面で聖書にみ言葉を求め祈る習慣がしっかり身についていましたので、泣きながらも聖書にみ言葉を求めました。み言葉に慰められ、力付けられ、懸命に祈りました。夕礼拝後にすぐ鈴木牧師先生にもお願いしました。先生は快諾され、棚橋牧師先生や鈴木長老ご夫妻もお呼びし私を囲んで祈って下さったのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18章20節)大人数では尚更このみ言葉の重みがわかりました。 あの晩の情景は今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。帰り道、夜空を見上げて、心から天の父に助けを求め、私の大好きなみ言葉のイザヤ書41章9〜10節を繰り返し自分に言い聞かせました。 その時、四月の春風が優しく私の顔を撫でてくれて、豊かな自然に包まれるように私の心も落ち着き、もう大丈夫!と心にも春がやってきました。しかも永遠の春だと信じました。その一ヶ月後、母の体調は奇跡的に回復し、認知症も一時的な症状と後からわかりました。 振り返ってみれば、通勤電車(始発電車)の内で、聖書を15分間読むのを続けてもう十何年、これは日課です。そして毎日頭をあげるのと頭を垂れるのも欠かせません。頭をあげるのは主を仰ぎ見ること、十字架を仰ぎ見ること、頭を垂れるのは聖書を学ぶことと祈ること(おまけとして頸椎症の予防にもなるかもしれません)。これからも頑張ります。 (※)「飲水思源(インスイスユァン)」 意味 水を飲む時にはその水がどこから来たかを考える→幸福な時はその幸福の源がどこにあるかを忘れてはならない。 |
(り ふんすい) |
岡田めぐみ |
「介護職に就いたら相手が自分の両親や祖父母だと思って介護しなさい」私が福祉の専門学校に通っていた30数年前、先生方からそう学びました。その後就職した介護施設では先輩が「これからの福祉は資格だ専門性だっていうけどそんなの必要?福祉は心でしょ!」と熱く語っていました。 あれから随分と時は流れましたが、私は微力ながら未だに介護の仕事に携わっています。越谷市内を中心に各ご家庭で介護を行う訪問介護の仕事です。介護と言っても身体的介護から外出の付き添い、掃除洗濯買い物などの家事援助まで様々で、決められた時間にお宅に伺いコミュニケーションをとりつつケアを行い会社に報告。そんなルーティンを19年続けています。子育てで小休止している間に介護福祉士の資格を取り、今の会社に入ってからは毎月研修を受けスキルアップに励む日々。もちろん「心」がなければ人と関わる仕事なんてできないけれど、ちゃんと学んで専門性を高めなければ介護職です!って胸を張って言えません。 でもその一方で、今風にいうところの意識高い系介護ヘルパーを目指す私が実家に帰るとこうです。「その話何回目よ!」「えっ、そんなことも忘れちゃったの?」言ってはいけない言葉のオンパレードです。 年に一、二度会うか会わないかの80代の両親に、です。あれれ、これはおかしい。 アカの他人の高齢者には満面の笑顔で接することができるのに。ああ身内の介護って本当に難しいのだなとつくづく感じます。関係が深ければ深いほど、思いが強ければ強いほど言いたくないこと言ってしまったり、責めたり嘆いたりしてしまうのだろうな。だから私はそんな介護者の方にも寄り添っていくことができればなあと思うのです。 一回の訪問で長くて一時間程度。あなたが来てくれて嬉しい!と言って下さる方もいれば、なかなか受け入れて下さらない方もいる。「また来週ね!」と笑顔で別れたのに、いつの間にか天国へ帰られて、そのことを簡単な業務連絡メールで知るということもあります。そんな時は何度も最後の訪問を振り返って、ちゃんと笑顔でいつも通りできただろうか?何か気づきはなかっただろうか?と自分の無力感に苛まれます。 「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(出エジプト記3章12節) そんな時はこの聖句を読み、神様が必ず近くに居て支えて下さると信じて、遣わされた身としてどんな時でも悔いのないように、日々この仕事と向き合っていきたいと思います。 |
(おかだ めぐみ) |
越谷教会月報みつばさ2019年3月号特集 「み言葉に慰められ」より |