今月の特集題 聖書を読んで祈って伝道する
聖書に聞く
会田 愛香 |
「あなたは、お子さんにどう成長してほしいですか? 」 この質問は、越谷幼稚園で「人権について」を子ども達と学び、その後、礼拝堂で行われた越谷人権擁護委員協議会の方々との座談会時の問いでした。 突然、投げ掛けられたこの質問にすぐ浮かんできた言葉、それは聖書の御言葉でした。 ルカによる福音書6章31節 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」 学生時代、教会学校の先生のご奉仕をさせて頂いた時に、この聖書の箇所をお話しすることになり、改めてこの御言葉と向き合いました。神様は私たちを愛してくださり、イエス様を通してその愛を教えてくださっている箇所であります。そして「敵であろうと罪人であろうと、どんな人でも愛しなさい」ということ。この御言葉を神様から学び、私の小さな信仰のはじまりとなりました。 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもする」。これはなかなか行動に移せないことでもあります。しかし、たくさんの方々と接している中で、戸惑い悩むこともありますが、この言葉が私の指針となり、自然と相手の気持ちを考え、素直に真っ直ぐに接することが出来る心を持てた気がしました。 私は5歳の娘が2人います。越谷幼稚園の年中さんです。絵と工作が大好きで感情豊かな娘達です(とってもお転婆!笑)。毎朝、登園する前に先生やお友達に絵を描いたり、工作をします。それは本当に毎日のことで、それをプレゼントして先生やお友達の喜ぶ顔が見たいのです。また、夕飯を食べている時に毎晩のように「ママの作るごはんは世界一だよ!お店屋さんよりおいしいよ!」とママを笑顔にさせてくれます(本当は大した夕飯じゃないのに。汗)。 子ども達は、周りを笑顔にさせるパワーを持っています。それは、相手の気持ちを考えて、これをしたら喜ぶかな?と自然と考えているのかもしれません。そんな一生懸命で、いつも全力で行動する姿を見る度に、その気持ちをずっとずっと大切にしてほしいなと思っています。 「あなたは、お子さんにどう成長してほしいですか?」との質問に対しても、この御言葉のように、隣人を愛し、いつでも相手の気持ちを考えて、思いやり、自然と周りを幸せに出来る、そんなお心に成長してもらいたいなと思っています。その為にも私自身、からし種ほどの小さな信仰ではありますが、これからもずっと教会に繋がっていきたいと思います。 |
(あいだ あいか) |
坂戸 愛 |
今年の八月、義父が亡くなった。間質性肺炎を元々患っていたが、救急で運ばれてわずか七日で息を引き取った。家族は心の準備をする間もなかった。呼吸も荒く悶え苦しむ義父を前にして、私はクリスチャンとして何も出来なかった。 大きな無力感が残った。間質性肺炎は進行すると肺が酸素を取り込めなくなり安静にしていても息切れする。末期になると陸にいながら溺れているような感覚だそうだ。酸素マスクもモルヒネも効かず苦しい苦しいと足をばたつかせて訴える義父。我慢強かった義父のそんな姿を初めて見た。死を目前にしてもし私が福音を伝えていたら、共に祈る事ができていたなら、義父の苦しみは違っていただろうか。 苦しい早く楽にしてくれ でいっぱいの心に、少しでも安らぎや希望を灯す事ができたかもしれない。けれど私には出来なかった。いや、しなかった。もっと元気な時にいくらでも話すチャンスはあったのに、問題から逃げて向き合おうとしなかった情けない自分。神様が何度も与えて下さった機会を無視して無駄にしたのは自分なのだ。 クリスチャンの家庭で育った私は何の疑いもなく、自分もクリスチャンと結婚するのだろうと思っていた。ところが人生は予想外、主人も主人の家族も教会など一度も行った事のない人達だった。しかし神様の御計画は本当に不思議なもので、教会に行く事、礼拝を捧げる事、祈る事が当たり前ではない環境に置かれたからこそ、その意味を改めて見い出し大切にすることができたのだと思う。 そうでなければ私の性格では「今よりもっと」霊的に怠惰に鈍感になっていたに違いない。クリスチャンではない主人と結婚した事で教会と再び繋がり、神様との関係が回復したのだから主の御業は本当に素晴らしい。そして義父の死をきっかけに、義母に初めてクリスチャンであると告白できた。今は私が仏壇を拝まない、お線香を上げない事を自然に受け止めてくれている。 毎朝、広島聖書バプテスト教会がメールで配信している「日々のことば」というのを読んで祈るのが日課だ。毎日違うみ言葉とそれに伴う説き明かしが綴られている。その日の気持ちにぴったりくる時もあればはまらない時もある。集中できる時もできない時もある。それでもとにかく読んで祈る。忙しくてみ言葉が後回しになってしまう時もある。そんな時は他の事をしていても何だか落ち着かない。 全然ちゃんとしていない信仰生活だけれども、今日も明日も私はみ言葉によって生かされている。大きくも小さくもなく主に愛されたそのままの私で。 |
(さかと あい) |
越谷教会月報みつばさ2018年11月号特集 「聖書に聞く」より |