今月の特集題 聖書を読んで祈って伝道する
主が共にいますA
鈴木 洋史 |
私は中学から青山学院に通っていましたので、週に一回聖書の授業がありました。中学3年時の聖書授業担任は、昨年天国に召された笹森建美牧師でした。 笹森建美牧師。駒場エデン教会の牧師であられたことはご存知の方も多いかも知れませんが、先生は「小野派一刀流」第十七代宗家であり、私が勤めている警視庁を始めとする警察剣道の指南役もされていました。また亡くなられた後に行われたお別れの会について、産経新聞に特集記事を掲載されるほどの著名人でもあられました。 牧師であり剣士であられる先生は、中学生である私にとってはまさに「あこがれ」に等しく、誰もが先生に言葉をかけてもらいたい、話しをしたい、と思うような存在でもありました。当然何度かお話しをする機会もありましたが、残念ながら何を話したか今では思い出すことが出来ません。 授業も聖書の勉強という感じではなく、クリスチャン家庭における戦時中の苦労話や自らの失敗談などばかりを話されていた記憶があります (私が授業をしっかり聞いていなかっただけかも知れませんが…)。 その中において何故か、先生が何度か言われていた「教会はキリストの体」という言葉が印象に残っています。 まだ洗礼を受けていなかった私にとって、その言葉が持つ意味について全く理解することは出来ませんでした。また深く考えようともしませんでした。しかし、何故か印象に残ったのでした。 それから長い年月が過ぎ、娘が附属幼稚園に入園したのが縁で再び礼拝に出席するようになり受洗するまでに至ったのは、この言葉が心の中に残っていたからかも知れません。そしてクリスチャンとして礼拝を守っているうちに、少しずつですが「教会はキリストの体」という言葉の意味が分かってきた気がしています。(つもりでいるだけかも知れませんけど) 越谷教会では、恵まれていることに日曜日に3回の礼拝がもたれており、仕事の関係で度々日曜出勤を強いられる私も何れかの礼拝に出席することが出来ます。そしてあり難いことに、礼拝司会などの奉仕もさせていただけております。(司会はとても緊張するので、出来ることなら遠慮したいのが本音ですが…) 軽き者ですが、キリストの体である教会に連なる枝として、キリストの体の一部として、信仰生活を守りつつ、伝道の業のため神様から与えられた役割をこれからも果たして行きたいと考えております。 |
(すずき ひろし) |
角田あゆみ |
私は今、日本基督教団の杉並教会幼稚園で保育補助のパートをしています。 先日、主任の先生が礼拝の中で子ども達に「嵐を静めたイエス様」のお話をされました。 ガリラヤ湖を渡っていた主イエスと弟子達の小舟が突風によって沈みそうになり、弟子達が眠っている主を必死に起こして助けを求める・・・主は起き上がって風と荒波をしかりつけると荒れ狂う風と波は収まった という皆さまもよくご存知のお話です。子ども達は、揺れる舟の中で眠っていたイエス様に驚き、また、イエス様のひと言で嵐が静まったことにも目をまるくしていました。イエス様は「何故、私があなたと一緒にいるのに怖がっているのですか?」と弟子達に問われました。イエス様がいつも私達と共にいてくださる・・・だから大丈夫。子ども達は、さまざまなイエス様の奇跡のお話を聞き、毎日、主の愛を感じて過ごしています。これらの聖書のお話(み言葉)が、子ども達の心の深い部分に残り、成長してからも必要な場面で、ふっと思い出すことがあってほしいと願いつつ・・・生涯の中で最も大切な育ちの時期に関わっている責任を感じると共に、それが喜びともなっています。 私達は、苦難の中にあっても主の支えがあるからこそ、乗り越えられることがあります。自分の弱さ、小ささ、罪を全てご存知の主が、それでも自分を受け入れ、愛してくださっているからです。 私は、中学時代のいじめを経験した時、アメリカへ留学した時、友人を亡くした時、いろいろな苦難の時に聖書のみ言葉によって救われました。苦しい時こそ、主が共にいてくださり、励まされました。私は一人ではない。そのような体験が心の支え、信仰の支えになっています。 私の心の支えになった讃美歌「小さな祈り」の歌詞を最後にお分かちさせていただきます。 この心の恐れや苦しみの全てを 今わたしの内から取り除いてください ずっと幼い頃に空を見上げながら 感じていた平安与えてください 祈り求めた時目の前の雲がとけてゆき、ただの澄みきった空 こんなに大きな空の下で 空より大きな主のふところで 今わたしはただ、あなただけの力の中で生かされている |
(つのだ あゆみ) |
越谷教会月報みつばさ2018年3月号特集 「主が共にいますA」より |