今月の特集題 聖書を読んで祈って伝道する
み言葉とわたし
小林 明子 |
〈み言葉とわたし〉というテーマをいただきました。私がみことばに向き合うようになったのは、越谷教会に通うようになってからです。 それまでは聖書からではなく、別のかたちで神さまの存在や聖句に触れていたと思います。たとえば三浦綾子さんや遠藤周作さんらの本から。たとえば映画からも…。 クリスマスイブに出会った男と、まだ翼をもたない天使の物語『素晴らしき哉。人生!』。聖フランチェスコを描いた『ブラザー・サン シスター・ムーン』。 ウクライナの貧しいユダヤ人一家の、宗派の違いから生じる心のゆきちがい、しのび寄るユダヤ人追放を弾圧。ふるさとをあとにする人たちについてゆくバイオリン弾きの音楽は印象深く心に残りますが、同時に、繰り返されるユダヤ人弾圧が、戦争の気配と結びついていきます。 『ゴースト』では天国と地獄を思わせるシーンが。『ダイ・ハード』では、主人公が「神さま…」と叫ぶのです。思わぬところで、聖書の中の一節に出会ったり……。 けれども、もしもっと深く神さまからのメッセージを知っていたらどうだっただろうと振り返ることがあります。 副題に“永遠の入り口で”とあるゴッホの『疲れ果てて』という作品があります。 青い労働服を着た男が、頭をかかえて椅子にすわりこんでいる絵です。表情は見えません。すすり泣いているようにも見えます。何があったのか……。作品のタイトルと男の姿から想像するしかありませんが、心が深く傷ついて、絶望に押しつぶされそうな姿に胸を突かれます。かつての自分に重ねてしまうからかもしれません。 仕事と人間関係の重圧で、がんじがらめだった私の“青い服”の時代に、神さまのみことばが鎧だったらどうだったでしょうか。(当時は讃美歌に励まされていました)。夜更けに小さな声で“主我を愛す…”と歌いながら帰ったものです。家までの暗い道を、イエスさまが一緒に歩いてくださっているような気がしました。今、教会用の聖書とは別に、古本屋でみつけた黄ばんだ聖書を手もとに置いています。みことばや、大切な箇所を見つけると“あ!!このことば、あの時の自分に届けてやりたいなァ”などと思いつつ、えんぴつで囲み囲み読んでいます。少しずつ、みことばの鎧を厚くしていくつもりです。 |
(こばやし めいこ) |
一柳麻依子 |
教会へ通い、聖書を読むようになって、2年と少しが経ちました。2015年8月末から読み始めた聖書は、ようやく新約聖書のコリントの信徒への手紙二に入ったところです。 私は20代の頃、聖書を読もうとしたものの、創世記のはじめの数ページを読んだだけで投げ出してしまったことがありました。それから10年以上経ち、以前聖書を手に取ったことさえすっかり忘れていた私ですが、2年前の結婚を機にキリスト教と出会い、聖書を読む生活を送るようになりました。 最初の頃は、聖書を本当の意味で「み言葉」としては読んでいなかったと思います。特に旧約聖書は、大昔の遠い世界の物語として読んでいたり、教科書を読むように形式的に読んでいたりして、聖書のみ言葉との間には何か隔たりがありました。 昨年クリスマスに洗礼を受けたとき、石橋牧師より「洗礼を受けたら、聖書のみ言葉が生きた言葉としてもっと内側で響くようになるよ」とおっしゃっていただき、その言葉が印象深く心に残っていました。「内側から響くってどういうことだろう」と思っていましたが、最近その意味がようやく分かってきたように感じています。聖書のみ言葉との距離が縮まり、とても素直な気持ちで聖書のみ言葉を受け入れられる様になってきたのです。そして、み言葉によって励まされたり、安心感を与えてもらえるようになりました。聖書の言葉を受け入れ、日々の生活の中で、そのみ言葉が生きたものとして響いてくるようになってきたように感じます。のんびりマイペースな歩みかもしれませんが、この変化はとてもうれしい事です。 聖書を読み、また礼拝の説教を通してみ言葉を受け取っていく中で、一番大きく感じることは、神様の存在の大きさ、イエス様の愛がどれほど深く計り知れないものであるかということです。そして、いつも共にいてくださる主がいるということは、どれだけ心強いことであるかということです。時には、聖書のみ言葉を聞いて、そんなことは私には到底できないと思ってしまうことも正直ありますが、主はそんな私をも愛してくださる方だと知り、本当に励まされます。聖書を読み、礼拝に出て、み言葉に聞いて導かれる生活を大切にしていきたいと思っています。 この原稿をきっかけに、改めて「み言葉とわたし」ということを振り返る機会を持てたことを感謝します。 |
(いちやなぎ まいこ) |
越谷教会月報みつばさ2017年11月号特集 「み言葉とわたし」より |