今月の特集題
  聖書を読んで祈って伝道する

日々の祈り





主の御名は誉むべきかな
笹山 つね
 導いて下さった谷平先生や教会の方々の背後の祈りにより1986年12月21日に夫と共に松山協同教会で受洗しました。その日以来祈る事の大切さを少しずつ知らされました。
 私は洗礼式(浸水)の後びしょびしょのまま着替えに戻る時に皆様の前でツルリと滑り尾てい骨にヒビが入り、一か月安静にする様に医師から告げられて、私は教会からお見舞いを頂き、お祈り頂くといった信仰生活のスタートでした。
 娘が年長組でまだ未だ手がかかる時でしたから、私は早くちゃんと歩けます様にと自分の事ばかりを祈ってしまっていた事を記憶しています。
 その後夫の転勤転勤の生活でしたが、その地での礼拝に恵まれ感謝の祈りが続きました。そして「主よ…」それ以上祈れない日々もありました。ふり返るとその時には背後から誰かが祈って下さっていた事を後に知り、私は見倣う者になりたく、日々の祈りで家族以外の方々の事や世の中の事も祈る様になったのは信仰者として随分たってからだったと思います。
朝一人になった時に一つ一つ祈って聖書を読み、みことばを書いたりする日々が続きました。それは幸せな時間でした。
 その後夫は胆管癌で召され娘夫婦と孫達と暮らす事になり、一人になる時間が無い位忙しく、今は一人静かに祈る事は少なくなり夜休む前に祈ります。
 そして最近の事なのですが、越谷幼稚園でお世話になっております孫の眞子が遅く迄起きてテレビの録画ばかり見て母親に叱られて「神様に謝って悔い改めのお祈りをしなさい」と言われて「おばあちゃん、悔い改めのお祈りしなきゃいけないの?」と言って来る様になり、寝る前に一緒に祈る事があります。
 眞子の母親も教会の幼稚園で何か悪い事をしたり言ったりすると先生にその場で神様にお祈りして赦して頂くと教えられていたので、悔い改めを促しながら自分も祈っているのだと思います。
 ある日一緒に祈った後に眞子が「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 あのみことばが好きだ」と話してくれ幼稚園で覚えたと聞き、先生や教会の方々の背後のお祈りに感謝です。
 主はこの子の心をも育てて下さっていると知らされ、「わがたましいよ、主をほめよ、主が良くして下さったことを何一つ忘るることなかれ」と信仰の先輩が教えて下さったこのみことばを思い出しました。
 日々神様にイエス・キリストの御名により祈って良いとは、ただただ感謝です。    
(ささやま つね)


祈りの中で主と出会う
佐藤由理子
 私は60余年人生を神様とは無縁の道を歩いてきました。祈る習慣はない生活。
 2年前より聖書を読むようになりイエス様とお会いしました。その頃夫が病を得て命が限られた時「イエス様、夫が苦しまないように御許にお導きください」と懸命に祈りました。人生の途上には、すがるような祈りがあるのだと知りました。
 越谷で受洗の後千葉に移り、今は再び教会に通い礼拝や聖書の学びの日々を送っています。
 今クリスチャンとしての新しい命をいただき改めて御言葉・悔い改め・人間の罪・祈りなどの 考えるようになりました。今までの自分は、「私は人の役にたちたい」など自分が中心にいるのが当たり前の世界でした。
 今は自分が欲することを願う祈りより、まずは弱く小さな自分を顧みて、そっと神の前にたたずむ事が祈る心であるのかと思い始めています。
 私にも様々な人がいる社会で否応なく巻き込まれた苦難はあります。
 一時はそこより逃れたいと祈りました。
 人を許すという凡人の私には不可能と思える日々に苦悩し今にいたります。
 神様は抱えている苦難から逃れさせてくれるのではなく、弱く苦しむ私に力を与えてくださる。乗り越えようとする力をお与えくださり、困難を受け入れることを助けてくださる―祈る中で自分は多少なりとも変わることができたかもしれません。
 許し得なくても、神様の暖かい光がその人達に届きますよう、イエス様彼らの心を抱きしめて癒してくださいと祈ることができます。今は祈ることで怒りを手放す事ができると信じています。
 今回この文章を書くにあたってルカによる福音書18章9節「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえを繰り返し読んでみて、理解浅い私にも徴税人のように罪深い自分の姿を見つめ祈る大切さがようやく心に入ってきました。
 「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
 みつばさの原稿依頼に感謝ですね。越谷教会の皆様ありがとうございました。
 千葉北総教会で、これからも祈りを続けていきます。
 主のお導きに感謝しつつ
(さとう ゆりこ)

越谷教会月報みつばさ2017年10月号特集
「日々の祈り」より



特 集