今月の特集題
  聖書を読んで祈って伝道する

悔い改めて





神様の愛に触れた
清水 広幸
 イエス・キリストに初めて出会ったのは高3になったばかりの春でした。家庭内のこと経済的に厳しくなったこと、半年前からのアルバイト漬けの生活に疲れを覚えていた頃でした。時期的に進路を考える時で級友たちは○○大学を受ける、推薦を狙うなどの明るい将来の話題で持ちきりでした。
 私には将来展望も希望もない状況でした。辛かったのは私の家庭内のこと、学費が払えないかもしれないという経済的なことを、友人に絶対に言えませんでした。幸い卓球部や無線部に所属し仲間はいましたが告白する勇気はありませんでした。笑顔で接しながら進路の話になると、そっとその輪から外れました。自分が抱えるたくさんの悲しみや、自分はなぜ恵まれないのか?自問しながらの生活でした。あれもない、これもない中で、「自分は頑張っている、一生懸命生きている」と言い聞かせながらの生活は力みと緊張の連続で平安はありません。聖学院高校で学び出会った礼拝、キリストの教えや祈りが唯一、他者に知られることが無い自由で安らぎの時間でした。
 高3春、思い切って聖書レポートのために出席していた浅草教会の林田秀彦先生を訪ねました。現状をお話ししました。胸ポケットに署名済みの退学届を忍ばせて。私はその時は、相談して学校を辞める覚悟でした。先生はじっと話を聴いて下さりこう言われました。「辞めることはいつでもできるよ。もう少し頑張ってごらん。神様がきっと応援してくれるから」と。そして聖書の言葉を読んでくださいました。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)というところを清水と置き換えて読んで、祈ってくださいました。その時イエス・キリストに出会い神様に触れました。なぜ自分ばかり不幸になるかと思っていましたがそうではなく、みじめな私を神様が選び出会うための大きな試練であったのだと感じました。
 私はその時から変わりました。自分なりに神様の為に働きたいと思いました。そして、同じような迷いや悩みのある生徒達と一緒に生きたいと願うようになりました。その決断と祈りが聞かれ、大事な母校に奉職することを許されています。力不足ですが、神様に仕え生徒達の想いに寄り添える人間でありたいと願っています。    
(しみず ひろゆき)


神様のお導き
豊田 雅孝
 6月21日75歳になり後期高齢者にされてしまいました。心は未熟なままですが体の方は75年間の過酷な使用により方々に思わぬ綻びが出て来ました。平均寿命が延びて75歳以上の人が1,700万人もいるそうですが私の人生も終盤に差し掛かっていることは間違いありません。父も祖父も私の年齢までに他界しましたし、教会や学校の仲間でも私の年齢で既に亡くなった人もいます。しかも生前に立派にご自分の葬式の準備までして亡くなられた人のことを考えると私も早く準備しなければと焦る気持ちも出て来ます。自分の葬式のこと以外にも故郷のお墓や普段は無人の実家のことなど生きている間にかたづけなければいけないことが沢山あります。しかし、現実的には永遠に時間があるようにのんびりと日々を過ごしています。このままある日ぱたりと死んでしまって残された家族に迷惑をかける可能性もたくさんあります。
 このような日々の中でも私が一番幸せを感じることは教会に繋がっていることです。信仰の浅い弱き人間ですが、死んだときに天国に連れて行ってくださる神様がいますから安心です。信仰を同じくする仲間がいるから幸せです。
 でも、生きている間はできるだけ元気で楽しく過ごしたい。できれば少しでも社会の為になるように日々を送りたいと思っています。70歳で仕事を辞めてからの私の生活は週一回の声楽の個人レッスンと民生委員など小さな社会奉仕です。毎朝六時半から近くの公園のラジオ体操に行っていますが、脳梗塞、パーキンソン、リュウマチなどを患われたかたもおられます。その中で歌の好きな方々と体操の前に大きな声で童謡唱歌などを歌ったりしています。毎日顔を合わせることで仲間意識も芽生え随分と仲良くなりました。しばらく出て来ない人がいると互いに心配します。
 具体的な話として、7月初めから体調を崩していた一人暮らしの男性が、二週間ぶりに体操に出て来られたので我が家で焼いたケーキを昼過ぎに持参したところ、手も足も動かない状態で横たわっていました。休日だったので市立病院の救急外来にお連れしたところ、すぐ入院ということで今も入院中です。「あの時豊田さんが来てくれなかったら朝までに死んでいたよ」と感謝されますが、私は神様のお使いで行ったような気がします。私は明日の朝体操で会った時に渡せばいいと思っていたのですが、妻が今すぐに持って行ってあげたらと言うので午後一時頃に行きました。これらすべての流れが神様のお導きではなかったかと思います。何気ない日常生活の中にも神様が働いて下さっていることを信じ感謝します。    
(とよた まさたか)

越谷教会月報みつばさ2017年9月号特集
「悔い改めて」より



特 集