今月の特集題 聖書を読んで祈って伝道する
出発点に立ち帰って
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貴田 陽一 |
学級内は騒然としていました。小学校6年生の10月8日、私がランドセルを降ろした時でした。「ウワーキダがネー」。これが耳にとび込んで来たのでした。![]() そこで事件を起こしたのでした。越小の学帽をかぶった少年の私は、この友人等と町をそぞろに流していました。その時ふっと目に止まったのが銀色に輝くべー独楽でした。それに魅せられて私はその出店の前にすわりました。友人達も私を囲むようにしてしゃがみこみました。 べー独楽は一個70銭でした。私はポケットに手を入れてお金をまさぐりました。ありませんでした。私は出店の兄さんの目を盗んでその一個に手を出しました。うまく成功しました。二個目も成功しました。しかし三個目に手を出した時、向うから私の手をむんずと掴む手がありました。 「オイ、あんちゃん何するんだ」。私の顔は真っ青になりました。その後はどのようにそこから逃れたのかも覚えていません。 私の隣には学級一のスピーカーT.A君が居ました。 そして翌朝のできごとでした。もうすでに学級内にそれは伝わっていました。 「ウワー日曜学校に行ってるキダがネ」。しかし友の中には「俺ならもう少しうまくやるな」と言う者もいました。この言葉は慰めでもありました。T.E君。私の人生の最も悲しく辛い日。 一日中それがくりかえし語られた日。 ![]() 明くる日、重い足を運んで学校に行きました。 その日以降友人達の間からこれが消えました。三日たち四日たち私の心の中に「イエスさまは僕の祈りをきいて下さったのだ」。そんな思いが心を支配して行きました。それ以来、私の祈りをきいて下さるイエスさまが居て下さるという確信が私の信仰を導いて下さっているのです。 越谷教会なかりせば、日曜学校なかりせば、弱い私はどんな人生を送ったことでしょう。そして今もその主に生かされている喜びを心いっぱい感謝して生かされているのです。 |
(きだ よういち) |
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豊川 昭夫 |
![]() 私が受洗したのが丁度30年前です。受洗の時に「みつばさ」に原稿を書きました。大変恥ずかしいのですが、今回のテーマに相応しいので転記します。 「教会に行くようになった動機」 私が教会に通いはじめた理由は、実は余り高尚と言えるものではありませんでした。 私の細君は結婚する前に、熱心な小松川教会の信者でした。そのため、私のデートの誘いに対しての返事は、「今日は聖歌隊の練習がありますので会えません」「今日は聖書研究会があるので会えません」「今日は礼拝日、今日は祈祷会、今日は…」。結局私たちは月に一、二度しか会えませんでした。 私は、彼女がどうしてそんなに熱心に教会へ行くのか知りたくなったのと同時に、何とかして百パーセントこちらに顔を向けてくれないかと考えた挙句、母が通っていた越谷教会へ一度行ってみました。 結果は予想した以上でした。初めてと言ってよい程、私の方を向いてくれました。それこそ「ヤッター!」という感じです。しかし、この事が実に大変なことになってしまったのです。何故なら、次に彼女はこう言ったのです。「そして、牧師先生はどのようなお話をされたのですか?」 以後、私は毎週日曜日には教会に通い、人一倍熱心に牧師先生のお話を聞くようになりました。(終わり) ![]() 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 (ヨハネによる福音書12章24節) 天国で初めて義母に会う時は、義母の存在と神様の導きで私がクリスチャンになれた感謝のお礼を言いたいと思います。 |
(とよかわ あきお) |
越谷教会月報みつばさ2017年6月号特集 「出発点に立ち帰って」より |
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