今月の特集題
  礼拝の充実を目指して

感 謝





神の子どもとされて
福田 理絵
 主に贖われ、神の子どもとされ、主と共に歩める人生はなんて幸せで祝福だと感謝の毎日を過ごさせて頂いています。
 また、日本キリスト教団越谷教会に集わせて頂き感謝します。
 私はクリスチャン二世で、小さい頃より教会学校に通い、十代や若い時には神様から離れた歩みをした時もありましたが、自分の罪を悔い改めて神様が分かってから後は、行いや信仰生活においては少しいい子ぶったクリスチャンでした。
 しかし、私の人生は幸せとはかけ離れていて、家族の崩壊や事業の破綻や病気など重い問題があり、心には悲しみや拒絶感や恐れが常にありました。
 自分や家族の壊れている心や関係、打破しない実際の現状に「神様を信じているのになぜ」ともがき苦しみ、また、自分の心や罪や過去を探ってはこのせいか、あのせいかとあらん限りの罪や咎を悔い改めて祈ったりとありました。そのような中で、昨年神様は私を祈りへと導かれ、また集う教会も与えて下さり、神様が私に触れて下さるようになりました。
 祈りに導かれたことがターニングポイントとなり、私の人生に変革が起こり始めました。
 神様が直接、心に語りかけて下さったり、み言葉や礼拝説教を通して、またあらゆる方法で神様が生きて働いておられることをはっきりと分からせて下さいました。
 心に光が射し、暗闇が消えて行き、喜びが湧き上がって来るようになりました。
 何の感情もない砂漠のようであった私の心に少しずつ泉が湧くようになりました。
 神様の奇跡です。神様が私を憐れんで、私に近づいて下さったことにより私の心が変えられ、実際に人間関係や仕事にも変化が現れ、経済的にも祝福されて来ました。
 呪いの中でなく、神様の祝福の中を生きる者とされました。ハレルヤ!
 しかし、祝福と同時に家族や身近な人に理解されなかったり、祝福と思っているものであっても、神様以上になり得る支えや拠り所とするものを主が手離すようされたりもありました。今もそうですが、神様が私の全てとなるよう、痛みもときどき伴いますが主を信頼することを何回も転びつつ、日々学んでいます。
 色々なことが回復して行く中で長年祈っている家族の問題は根が深く、少し時間を要するよう感じますが、目に見えない所で主は確かに働いておられるのを感じます。人間の働きかけは小さく1000の内の1ぐらいにしか過ぎず、残りの999は神様が働いて下さると信じ、み言葉の約束を信じます。
 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒言行録16章31節 口語訳)神様は私を時々、朝起こして下さり私に必要なことを語って下さいます。また、み言葉から沢山の祝福と導きを与えて力づけて下さいます。
 神様の子どもとされただけで、いつでも神様に近づき、また神様が近づいて下さり親しく語って下さるとは本当に恵みだと思い感謝いたします。
 私の心がくじけそうな時に実際に主が夜中に臨在を持って現れて下さり「私はあなたを見捨てない」と語って下さいました。
 神様は生きて、現実に私達と共にいて下さるお方です。
 私はこの神様から目を離さず、神様の子どもとされた恵みを感謝して、主の命の道をこれからも歩み、自分だけでなく家族や周りの人々に祝福や主の命をもたらす者へと変えられて行きたいと願います。
 全ての恵みを感謝して    
(ふくだ りえ)


感謝をかさねて
新開 英恵
 一昨年のクリスマスに洗礼を授かり、越谷教会の礼拝に参加するようになって一年が過ぎました。その間、家庭の事情などありなかなか教会に足を運べない期間もありましたが、「感謝」という言葉はつねに私にとってのキーワードでした。
 礼拝に参加すると、それまでの日常で積もってしまった心の垢が落ちて、心身ともに浄められるような、さわやかな気持ちになります。この一年ほどは生活の変化が激しく、不安定な日々が続きましたが、いつのまにか礼拝が自分にとって欠かすことのできない、心のよりどころとなっていることにわれながら驚きます。
 礼拝の場である越谷教会に出会わせてくれた主人、そして越谷教会の石橋牧師をはじめとするさまざまな方への感謝で心がいっぱいになりますが、すべては神様のみ恵み。こんな私を見つけてくださった神様への感謝で、満たされる毎日です。
 先日、映画『沈黙』を観ました。学生時代、遠藤周作を熱心に読んでいたこともあり、作者の没後二十年を経ての映画化は感慨ぶかいものがありました。とは言え、キリスト教禁制の時代、信仰を守ろうとした人々への激しい弾圧は、大きなスクリーンで見るにはあまりにも残酷で、目を背けたくなるようなシーンが続きました。
 若い頃は信仰もなく、原作をあくまで文学作品として読んでいたため、迫害される人々がなぜ信仰を棄てずにいたのか理解できずにいました。形だけでも踏絵に足をかければ許されるのならば、踏んでしまったほうが良いのではなどと考えていました。が、信仰をもつようになった今では、当時とは違った心境で作品に向き合えました。踏絵を踏まなかった者も、踏んだ者も、その苦しみは絶大ですが、神様はつねに彼らとともにいらしたように思えたのです。
 映画では、踏絵を踏んだ宣教師ロドリゴのその後が描かれており、かつての私であれば、不要と思ったにちがいありません。しかし、ロドリゴの最期は今の私から見て不可欠であり、このラストシーンのために『沈黙』が映画化されたのではないかとすら思わせられました。それにしても、鑑賞後には改めて、ふつうの生活を送り、日曜には教会へ行き、礼拝に参加できることのありがたさを実感しました。
 さて、こんなふうに「感謝」について書き綴りながらも、この原稿の依頼をいただいてから、主人と喧嘩をしてしまい、まったく筆が進まなくなってしまった数日間がありました。まだまだ未熟な私ですが、礼拝にあずかれる喜びを忘れず、感謝をかさねながら、日々を過ごしていきたいと思っています。
(しんかい はなえ)

越谷教会月報みつばさ2017年3月号特集
「感謝」より



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