今月の特集題 礼拝の充実を目指して
礼拝の恵みを伝える
橋爪 協子 |
先週、週報ボックスの前で貴田さんに声をかけられた。「御器所教会で妹さんに会いましたよ。背の高いきれいな妹さんですね」(そうか、私より?確かに背は高いよ) 貴田さんは、御器所教会員だったそうだ。 私は4人姉妹(若草?)の3番目、本当は6人姉妹だったが、2人の姉が私の記憶にないまま大連で召された。レベルの高いテーマ「礼拝の恵みを伝える」を依頼されて悩んでいた矢先のこと。 素朴な信者だった両親をあらためて思い起こすきっかけになった。 母は福井県の小浜で育ち、家族の中で自分ひとり信者となり信者としか結婚しないと決めていたそうだ。牧師に紹介されて、大連で教員をしていた父のもとに単身渡り、結婚している。日本が侵略していた大連であるが、当時、日本人は侵略と言う感覚はなかったようだ。その深い悲しみの歴史は、その後、私が中国山村の学校と関わる運命的な出会いにもなった。 昭和22年3月引き揚げ後、父は30代で郡上郡西和良村(岐阜県)の小中学校兼務の校長となり(男たちが戦争のため少なかった)豊かな緑と優しい地元の方たちに助けられ幼児期を過ごした。 両親はクリスマスだけ羽佐古峠を越えて、郡上八幡から列車で岐阜教会(日基)の礼拝に行くのが常だった。帰りに、「富士屋」で牛肉のこま切れを買い夜はすき焼き。おみやげは、「少女サロン正月号」。付録を4人で分けるのが楽しみだった。 一年に一度、山奥から礼拝に出ることが両親の大いなる喜びだったようだ。礼拝の恵みを最も知っている両親だった。その後、転居し岐阜市内の高校に通うことになった私は、定期券が使えるのでなんと毎週礼拝に出るようになる。父は長老とSS校長先生。姉妹3人も同じく恵みにあずかった。高校生クラス「ひかりの会」の活動が盛んで、礼拝はついでという感覚もあった。導かれ受洗に至る。両親の思いは主の賜物そのものであった。定期試験がある時などは寝不足で行きたくなかったが「寝ても大丈夫。神様が守ってくださるよ」と母。 こんな家庭に育ったので、礼拝の恵みは、自然体。前の週の自分の生き方を思い、その週の日々を主の御心のままに生きていこうと。言葉ではやさしいけど、実際は難しいけどね。 「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」 (ルカによる福音書1章73〜75節) |
(はしづめ きょうこ) |
田坂 邦彦 |
いま、教会学校では「十戒」を学んでいる。先日私の「お話し」の日のテーマが「安息日」であった。 中高生にとって遊びの誘いも断って「礼拝に来る」ことの意味は何か。 まず、彼らが意識しているか否かにかかわらず「神に招かれて」礼拝に来るのである。そこで私たち教会学校の教師は何を語るのか。自分達がキリストの十字架と復活による「めぐみの中に生かされている」ことを語り伝えるのである。(簡単ではない)自分にとって「礼拝」がめぐみの場となっていなければ、たましいの憩いの場となっていなければ彼らに礼拝の恵みを伝えることはできない。 現実はどうだろう。 ある高校時代の友人が、教会に行く度にくたくたになって帰って来ると言ったことがある。何かおかしい。しかし、そういうこともあるかも知れない。 神によって建てられた教会といえども人間の集まりとしての弱さを持っている。パウロの時代から同じ問題はあった。 キリスト教はご利益宗教ではないので、教会に来ればあらゆる悩みから解放してあげます、とは言わない。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 (マタイによる福音書11章28節) と聖書に書いてある。 でもその先を読んでみると「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの頸(くびき)を負い、わたしに学びなさい、そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの頸(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と。 そうか私の重荷は無くならないけれど、その重荷を共に負ってくださる方がおられる。自分にとって「教会」・「礼拝」とは何か、いつも「たましいの憩いの場として帰ってくるところ」でありたい。 詩編23篇(交読文6.文語訳) 主はわが牧者なり、 われ乏しきことあらじ。 主はわれをみどりの野にふさせ いこいの汀(みぎわ)にともないたもう。 主はわが魂を活かし、 御名のゆえをもて、我を正しき道にみちび きたもう。 たといわれ死のかげの谷をあゆむとも、 わざわいをおそれじ。 なんじ我と共にいませばなり、 |
(たさか くにひこ) |
越谷教会月報みつばさ2016年11月号特集 「礼拝の恵みを伝える」より |