今月の特集題
  礼拝の充実を目指して

礼拝の恵みに生かされる





恵みに生かされる
遠藤 孝
 駐車場から教会に向かって歩きながら、「今日も一日、暑いなあ!」と思っていると玄関前周辺、打ち水がしてある。一瞬の清涼感が湧く。
 「礼拝に出席する人のために、ありがとう」と思わず独り言。朝早くから奉仕してくださる方に感謝の気持ちがいっぱいになり、受付をしている当番の方に「打ち水をありがとうございます」「いいえ、私がしたのではありません、どなたかがしたのでしょう」との返答。
 早朝礼拝前に打ち水をしてくださる方、ありがとうございます。
 礼拝堂に入り着席した時
 「お導きにより礼拝に出席できましたことを感謝します。心を開き御言葉を聞き、生かされる者とさせてください」等の祈りをささげる。
 毎週礼拝に出席しようと思っても体調・都合(自治会の作業、活動等)のため出席できず欠席することが多い。着替えて出かけるとき急に下腹が痛み出して出席出来ないこともあります。礼拝に参列できたときの喜びは感謝せずにはいられない。
 今朝(8月14日)の「福音にふさわしい生活」という説教の中で、私たちはキリストの福音に生かされ、生活をしていることについて教えられました。
 福音にふさわしい生活は大きな課題です。           
 努力しようとしても長続きしません。挫折してしまう弱い私であることにいつも反省させられます。
 福音こそ私たちに示された恵みであることに気づきます。
 「あなたがたにはキリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピの信徒への手紙1章29節)
 福音=恵みとして私に示された御言葉である。福音を信じ、生かされるような信仰者になれるように努力したい。
 説教のまとめの中で、先生は下記の聖書の言葉を引用されました。
 「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だからキリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙ニ 12章9節)
弱い信仰者である自分を励ましてくれる御言葉でありました。礼拝に出席し、恵みに生かされていることを教えられ感謝しています。       
(えんどう たかし)


恵みと導きを求め
李 文慧
 今を遡ること12年前の2004年12月19日、私は越谷教会で受洗した。12年後の今、礼拝堂も講壇も受洗の当時とは変わっていない、神様の深い愛と恵みは変わらない。だから、私は礼拝が大好きだ。礼拝堂の十字架を見上げることが大好きだ、そしてオルガンの前奏が流れる中、静かに黙祷してから、讃詠、主の祈り、詩篇交読、讃美、信仰告白、説教、祈祷、献金、祝祷等すべてが大好きだ。わずか1時間だが、この時間こそ、このごく短い時間こそ、かけがえのない宝であり、神様の声を聞き、生きて働いておられる神様との出会いとなっている。
 「なぜ毎週教会に礼拝のために集まるのか?」とよく友達に聞かれる。私は自身の霊命の成長によって、認識したことと感じたことが変わってきている。受洗した当時、礼拝は教会の伝統だと、クリスチャンとして生活の中の一部分だと、みんなが行くから私も行くのだと思っていた。その後、礼拝に出席しないと、心の中が落ち着かないと次第に感じるようになった。参加すると世間の悩みと疲れから離れられ、体、心を静かにさせてくれるのだ。そして、今の私は、礼拝は奉仕であり、伝道であり、礼拝の恵みに生かされ、主の救いに結ばれて生きるという心境となった。
 振り返れば、神様がいつも自分の人生をいい方向に後押ししてくれる力を感じた。正に「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」。
 余談になるが、5年前会社の為に第二種電気工事士を取得してほしいと打診された時、本当は断りたかった。が、不思議に聖霊の感銘を受け、「OK」と即答した。その後は勉強とお祈りの日々が続き、試験当日の朝は、イザヤ書41章10〜13節と43章1〜4節を繰り返し読んだ。試験場に私みたいなおばさんはいなかったが、神様から祝福され、筆記試験が完璧にできた。また、次の技能試験は現場での経験の有無が合否を左右するが、その経験がない私はどうすれば合格できるのだろうかと一時は悩んだ。でも大丈夫、私が日頃心掛けている通り、悩みや願いを安心して神様に委ねた上で、また練習とお祈りを繰り返した。技能試験当日、神様から導かれ、私に必要以上な余裕を与えてくださり、ミスなしで終了時間より15分早く作業が完了、しかも一発合格であった!ハレルヤ!
 今も、神様は毎週の礼拝を通して、「あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい」と背中を押して下さっている。だから、元気に生活するには、礼拝が不可欠だ。礼拝の恵み、祝福は一時的なものではなく永遠に続くものだ、限りなく永く続く恵みだ。これからも礼拝の恵みを大きく自分の中に取込み、主の導きを求めて行きたいと思う。     
(り ふんすい)

越谷教会月報みつばさ2016年9月号特集
「礼拝の恵みに生かされる」より



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