今月の特集題 主は生きておられる
礼拝の恵み
浅川 恵子 |
「神の最大の恵みは、礼拝を捧げること」 御言葉を聴き、主が共に歩いてくださることを知る。 「礼拝に欠かせぬこと」神に栄光を帰すること。つまり神に最高の価値をお返しすること・・・。 「霊と真理をもって父を礼拝する」(ヨハネによる福音書4章23節)生ける神の存在を実感し、自己中心を投げ出すのが礼拝と、目にしました。「はい、確かに・・・」と、わかったようなまだまだわかりません。 み言葉により恵みを受けて、祈りと賛美と財とを「捧げる」そして神を第一とする生き方。 でも、でも、このことをしっかりと確認しつつ礼拝を捧げているでしょうか? 礼拝は、とかく自分の意志で、努力で行くという思いがあるのではないでしょうか、自分の思いで来ている・・・。 いいえ、大切なことは「招かれているという事実」です。私は礼拝に招かれたのです。招かれての恵みです。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネによる福音書15章16節) このことを素直に受けとめてこそ ここ、礼拝に招かれたことは、恵みであり感謝です と祈れるのです。 礼拝堂の席に座ったとき、心地よい時が伝わり、み言葉を聴く喜びになります。 神に生かされている者として、礼拝に招かれることを感謝しつつ歩むべき道を教えられ、常にみ旨のままに歩む者でありたいと祈ります。 |
(あさかわ けいこ) |
岡林 信雄 |
1月31日は埼玉地区講壇交換で白岡伝道所の佐々木佐余子牧師により説教題「御顔こそ、わたしの救い」で詩編42編を通して学びの時を与えられました。 詩編は韻文を利用して作成され多くの讃美歌の歌詞になっています。全編を読むと、信仰者の偽りのない祈りの声が正直に述べられています。こんなことを神様に祈って良いのかと思われる記載もありますが、最後まで忍耐して読みますと最後は「ハレルヤ。アーメン」と信仰告白しています。 42編は捕囚の身となり異文化で何十年も不自由な暮らしを余儀無くされていました。「わたしを苦しめる者は・・・『お前の神はどこにいる』と。」(11節)、しかし「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(7節)この信仰はどの様に手に入れたのでしょう、この信仰は神様からいただいたもので、人間の信心であればひとたび皇家滅亡の様な危機が来れば崩れるでしょう。 「『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。』そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」(マタイによる福音書8章26節) この神様から頂いた信仰で、先生ご夫婦が地獄の苦しみから脱出でき「家族も救われます。」(使徒言行録16章31節)の御言葉が成就し、ご家庭が救われた証をされました。 口語訳聖書の詩篇の最後は「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ。」で締め括られています。 |
(おかばやし のぶお) |
高橋 和美 |
オリンピックが近づくと思い出すのは父とのことです。小学校の頃、東京での初めてのオリンピックが開かれることで、どこも、ウキウキとしていました。その頃父は都内のホテルに聖書を配っていたそうです。その頃は車に一緒に乗っていることが楽しくて父が何をしているのか全くわかりませんでした。世界中の人が泊まるホテルに、聖書を置くためだったというのを、教会に行くようになって知りました。 それからは、旅行や出張でホテルに宿泊すると、必ず聖書があるか、探すようになりました。星共社(父が務めていた)のものかを見るようになりました。見つけるとうれしくて神様の恵みを強く感じたものです。そんな時は思わず「神様感謝!」です。 礼拝の恵みを一番感じたのは、越谷教会の礼拝に初めて出席した時でした。その頃、定年間近になり、仕事がなくなる不安からいらいらしたり、そわそわしたり、落ち着かない毎日でした。そんな時越谷教会と出会いました。礼拝の中で自分の小ささを感じました。 何を悩んでいたのかと不思議な気持ちになりました。自分の人生が、すべて神様のご計画の中にあるのだと実感したのです。その後再任用という形で、仕事に恵まれ、又学校に行っています。 子ども達と、絵を描いたり、工作をすることはとっても楽しいことです。教えているというよりは、助けられていることのほうが多いかも知れません。生徒に「何でほかの教科は毎日あるのに図工は週一回なの?」と聞かれると本当にうれしくなってしまいます。又若い先生方に「いてくれるだけでうれしい」などと言われていい気になっている毎日です。 教会でも、お花当番などご奉仕に恵まれ、「神様感謝!」です。 |
(たかはし かずみ) |
越谷教会月報みつばさ2016年2月号特集 「礼拝の恵み」より |