今月の特集題 主は生きておられる
御言葉が響かなかった時
荻田久次郎 |
「伝道に燃える教会」=主は生きておられる=このテーマを頂いた時、我々の教会が伝道に燃える教会であるのか?我々の伝道によってみ言葉が人々に届いているのだろうか?とまず疑問に思った。 み言葉が響かないのは私たち現代の人間が神を求めないからではないだろうか?特に私達クリスチャンが主の復活を信じ、生きておられる主に従って行動 を起こさないからではないだろうか?アブラハムは神を信じ、神に従い行いをもってカナンの地に移住したので、神に祝福されたのではなかっただろうか? では、何の行いをすべきか?を考えてみた。それで次の問題提議をしたいと思う。 「これでいいのか?今の教会」埼玉地区壮年部ニュース2010年2月発行 埼玉・教会・壮年を一部左記に転記します。 =教団50年データから10年先の姿を見る= 『若者たちが消えた教会、子どもたちの元気なにぎわいが聞かれなくなった教会、お年寄りばかりが目立つ教会。特に日本基督教団の教会に著しくみられる現象という。 教会員の高齢化と働き盛りの信徒数の減少傾向は今後10年間は継続すると予想される。このままでは教団教会の明日はない。それに引き換え、福音系の教会は伸びているという。またカトリック教会も増加傾向を見せている。』 お隣の韓国ではプロテスタント教会が盛況で、一つの教会だけで5万人の信徒を擁する教会もあるという。「これでいいのか?」といきなりセンセーショナルな見出しに皆さんは驚愕したに違いないが、地区壮年部は、これまで信仰継承に加え、社会や教会自体の高齢化の問題について真摯に取り組んで来た。 減り続ける信徒、伝道力が低下した教団教会の未来ある姿を探り、元気を取り戻し、神様の栄光を表すには、いかにあるべきか。今、悩める若者たちがいる、年間3万人を超える自殺者がいる、福音を求めている人々は沢山いるのだ。 私達の教会も、もっともっと「伝道に燃える教会」となるべく務めようでは有りませんか。 |
(おぎた きゅうじろう) |
鈴木 美紀 |
「自分のことばかり考えていないの。常に相手のことを思って行動するの」 これは高校生の娘が、小学生の息子にお説教していた時の言葉です。 私には二人の娘と一人の息子がおります。右と似たような言葉で、娘二人は時折私を責めます。いつもは図星でうなだれている私ですが、先日、娘に反撃しました。 「あなただって同じじゃない」 娘はニャっとして答えます。 「大丈夫。外ではちゃんとしているから」 私は無言になりました。娘は知っているのです。私は家でも外でも、自分のことばかり考えて行動していることを。私は母と違っているから大丈夫、だと言うのです。 娘が外で本当に実践できているかどうかは知りませんが、私が「人のことを考えて行動する」人だったら、娘も母親としての私に敬意を持ってくれただろうなと切なくなります。 「御言葉」が私に響いた時が、受洗してこのかた一時でもあったのかなと考えると、悲しいことにあったと到底思えません。 「今、『御言葉』が響いている」と感じた時期もありました。けれども私の場合はそのような時が一番、「御言葉」から遠く離れたところにいて、家族を含め周りを傷つけていたと確信しています。 「御言葉」どころか、「自分のことばかり」考え、偽善をふりかざし、相手に寄り添うこともしないで私の偽善を押し付けていたのだから、家族を含め傷つけた相手にすまなかったなと後悔しています。 それなのに主は、こんな私を許して下さいます。 「御言葉」に目も耳も塞ぎ、強がっている私ですが、やはり、主に祈ってしまうのです。 八方ふさがりで孤独な中にいる時。死を身近に感じずにいられない時。 祈ると、私は安心するのです。主が共に歩いてくださると。主の平安の中に憩わせてくださっていると。 それもつかの間、やはり私は相変わらず、自分に浸り、「御言葉」から目をそむけずにはいられないのです。 主よ。お許しください。哀れな子羊を。 |
(すずき みき) |
越谷教会月報みつばさ2015年6月号特集 「主は生きておられる 御言葉が響かなかった時」より |