今月の特集題  新たな確信




卒寿も恵み
乙部栄次郎
 今年私は90歳になりました。
 27歳の時キリストを信じて救いに与りましたので信仰生活63年になります。
 戦時中でしたので私も19歳の時学業半ばでしたが徴兵で召集され赤坂の東部六部隊へ入隊、北支派遣軍兵士として中国山西省で軍務につきました。
 戦地なので幾度か危機にも遭遇しましたが、その都度不思議に命が守られ、敗戦の一年後に復員しました。然し、信じていた神国の不敗も、現人神と教えられていた天皇も人間宣言をされ夥(おびただ)しい国家、思想の変容に無気力で自堕落に陥っていた時、伯父が読めと貸してくれた一冊の聖書が本当の神、救い主キリストを信ずる者に替えられる転機となりました。
 すると、戦地で遭遇した危機を免れたのも神の憐みであったと悟ることが出来ました。
 会社を定年退職の折、石橋先生のお勧めもあって聖書を学校や福祉施設等に無料贈呈して伝道するギデオン協会へ入会しました。贈呈に訪問した草加のキングス・ガーデンが、まさか後の私ら夫婦の入居する処になるとは思っても居ませんでしたが、不思議なお導きで現在此処が終の住処となっています。
 キングス・ガーデンでは協力下さる教会の牧師先生方により毎朝地階のチャペルで礼拝をお奉げ出来る素晴らしい施設で、入居の信徒には何よりの感謝です。
 私ごとですが、このホームに入ったお陰で老妻も洗礼の恵みに与る事が許され、共にキリスト者とされました。これが最高の感謝です。そして勿論卒寿の恵みも感謝しています。
 讃美歌に「功無き我を」と詠われていますが、功どころか、示されれば顔を伏して黙する以外、術を知らないカインのような者が八十路の坂を越える今日まで無事生かされて来たことは、キリストの赦しの恵みを信じる信仰に支えられてのことと深く感謝しています。
 さて、いよいよ九十代の歩みに入り残り時間も気にはなりますが、主は「思い悩んだからと言って寿命を僅かでも延ばすことが出来ようか、明日の事まで思い悩むな」と教えられておりますので、いつまで歩くか、何処まで行くのかは分かりませんが、主の手に縋(すが)って元気に「上を向いて歩く」者でありたいと願っております。    
(おとべ えいじろう)


新たな確信を得るために
古澤ひかる
 教会学校の奉仕で説教を準備する時、与えられた箇所を子ども達にどのように語ろうかとても悩む。
 祈りつつ聖書を繰り返し読み、教師の友の助けも借りて、自分勝手な解釈に陥らないように気を付けながら、ああでもない、こうでもないと頭を抱える。そんな説教当番がやっと終わり、ほっとしたのも束の間「原稿おねがいします」とのメール。しかも、テーマが難しい。困ってしまった。自分にとって新たな確信とは何だろう。何をどう書けばいいのかわからずに、またもや頭を抱えて数週間が過ぎてしまった。
 物心つく前から日曜日は家族そろって教会へという生活だった。だから、特別な出会いがあった、あるいは何かのきっかけで教会に導かれたとおっしゃる方々のお話を伺うとうらやましいなと思う。少なくとも自分で気付く限りではそのような事はなかった気がするから。どうして教会へ通うようになったのかと聞かれたら、幼いころからそれがずっと日常だったからと答える。
 中学時代からの友人に最近こう言われた。「面倒くさがりやのあなたが、ずっと教会に通い続けていられるから不思議よね」。確かに、私は面倒くさがりやで飽きっぽい。友達が不思議がるのもわかる。こんな自分でも、それでも毎週通っている。前の一週間をどんなに慌ただしく過ごしても、日曜日礼拝に出席し、讃美歌を歌い、説教を聞き、祈ることで心が落ち着く。たまに礼拝中にぼんやりして、交読文と間違えて讃美歌を開いて立っていたりするけれど…。そして、みなさんと挨拶を交わし、お話しする。そんな時間がとても嬉しい。
 「確信」という言葉を聞くと、揺るぎない何かを常にしっかりと心に持っているというイメージを思う。あちらこちらにふらふらしている自分には重い言葉だ。自分の場合、確信は、常に持っているというよりも、日曜日礼拝でみ言葉を聞くことによって新たに与えられ、それにより力を得て、また次の週も過ごしていけるものと言う方が合っているかもしれない。
 ヨハネによる福音書に、ニコデモが新しく生まれることについてイエス様に問う場面がある。イエス様はバプテスマについてお答えになられる。バプテスマで既に新しくされたはずなのに、弱い私は相も変わらず忘れっぽくて、ふらふらしている。だからまた新たな確信を与えて頂くために教会に通う。
(ふるさわ ひかる)


越谷教会月報みつばさ2015年4月号特集「新たな確信」より


特 集