今月の特集題  教会セミナー




第1部 信仰の先輩に聞く
− 疑い深い不信仰の先輩に聞く −
お話 川端由喜男牧師
インタビュー 豊川昭夫長老
 
 川端由喜男牧師は、当初【信仰の先輩に聞く】のタイトルではお話は出来ないが、【疑い深い不信仰の先輩】ならお話は出来るとおっしゃって下さいました。石橋先生に相談すると「そりゃあ面白い、是非お話を聞こう」と言うことで実現できました。
 疑い深いということは、お話を伺うと川端先生は聖書の翻訳に大変興味があり(実は先生はギリシャ語の大家なのです)原文から疑わしいと思うことがあり、疑問を持って聖書を読むことの必要を語られました。
 不信仰については、「私は全く不信仰そのもので、ある人の勧めで受洗し、神学校も自分からではなく勧められて入学した」と語られました。しかし、実際は筋の通った信仰者です。その証拠に、川端牧師は、幼少からホーリネス系の教会へ行っており、戦争時にあっても一貫して神社参拝も宮城遥拝もせず、天皇も神として崇めなかった。この為神学生の時に、上級生に酷く殴られた経験を話されました。また四十五年間の牧会の中で受洗は勧めなかったと話されましたが、ある日、我が家に突然来られて私の父親に受洗を勧めたのは川端牧師です。
「私が教会に来られるのは、石橋牧師・棚橋牧師と同様に私の為に祈って下さるからで皆様に感謝してます」と語られました。
 最後に、牧師になって良かった事をお聞きすると「全然ありませんよ」。では牧師になって困った事はとお聞きすると「毎日困っていますよ」と語り、会場を爆笑の渦に包みました。
お話を伺い私は、「疑い深い不信仰の先輩」の前に「健全なる」の形容詞を付けたいと思います。そして、この信仰の先輩の後に続くものとなりたいと願っています。
(とよかわ あきお)


第2部 青年伝道を考える
− 教会学校の現状 −
みなさまの祈りに支えられて
田坂 邦彦
 私たちは色々なきっかけで教会に来るようになり教会につながっていると思います。キリスト教に関係のない家庭に育った日本人にとって教会の門をくぐることは勇気がいることです。子どもの頃教会学校に行ったことがある人にとっては比較的入り易いのではと思われます。
 私は教会付属幼稚園を卒業し、小学校から高校卒業まで多くの教会員や教会学校の先生たちの祈りに支えられて育ってきました。
 20歳の時から51年間教会学校の教師をしてきたことになります。この間に多くの生徒たちと出会い、ともに聖書を学びながら歩んでこられたことは感謝です。
 教会学校とは学校や家庭では学べない大切なものを教えてくれる場と思います。
 約15年前のキリスト教年鑑を見てみますと越谷教会の教会学校は生徒の出席者数がなんと全国一でした(約100名位いたと思います)。今ではその半分位になっていると思います。
 いま、越谷教会の教会学校の教師たちの中の約半数は越谷教会学校育ちの先生が活躍しています。これはとてもうれしいことです。 
「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」(旧約聖書のコヘレトの言葉12章)        
(たさか くにひこ)


− 青年の主張 −
「青年の主張」の補足と訂正
 教会セミナーでは緊張のあまり上手く話すことができなかったため、ここでは話の補足と訂正をしたいと思います。
 まず、僕が考える伝道について補足します。僕は他者と分かり合うためにはお互いが大切にしているものを認め合うことが必要であると感じているため、伝道という行為は自分の価値観を無遠慮に人に押し付けることになりはしないかという懸念を抱いています。それを踏まえた上でたどり着いた答えが自分自身の人間としての在り方だったのです。僕は教会を通して出会った人々の人柄に惹かれたのであり、彼らと引き合わせてくれたことに神の御業を感じます。だからこそ、僕自身の教会員としての在り方が教会と人を繋げたり断ち切ったりするのではないかと考えています。
 次に表題である「青年の主張」を「悪ガキのお願い」として訂正したいと思います。これは話を終えてみて気がついたことなのですが、僕が子どもたちを言い表すのに使った悪ガキという言葉は、実は僕自身を最も適切に表している言葉でした。僕は教会学校に通う子どもたちを温かく見守って欲しいと言いましたが、この発言は彼、彼女等を年上の立場から思いやった言葉ではなく、彼、彼女等のひとりとして、悪ガキを代表してのお願いだったのです。
 最後に、私の拙い話に耳を傾けてくれたことに感謝します。これからも一際身体の大きな悪ガキをよろしくお願い致します。
(しみず よしひろ)


越谷教会月報みつばさ2015年3月号特集「教会セミナー」より


特 集