今月の特集題  主の生ける力を知る




主のご計画に感謝
正木 敬徳
 私は1947(昭和22)年8月、大相模村(越谷市の東側)で4人兄弟(2名死亡)の末子として農家に生まれました。生家はレイクタウンの噴水のあたりにありました(昭和38年3月まで電気が通っていませんでした)。沼地のような状態の悪い農地の一軒家でした。祖父が、ドブ田で年貢を納めることのできないこの農地約5町歩を買って、山梨から出て来たということです。開拓地のような処です。
 母は大正4年生まれ。山梨県都留市の山奥で10人弟妹の長女として生まれ、15歳の頃生家が鉄砲水で流出。一家で東京品川の親戚に身を寄せました。専売公社(タバコ)の女工として働き、一家を支えました。その頃大森の教会で洗礼を受けたそうです。この頃が生涯で一番楽しかった、と生前言っていました。母の弟二人はクリスチャンです。一人は戦後、越谷教会で長老をしていたとのことです。
 私は夜間の大学に通いながら、越谷市役所に務めました。生活保護や障害者福祉のケースワーカーなどをしました。併せて職員組合の役員などもしました。ベトナム反戦運動、三里塚空港建設反対闘争支援、部落解放運動の支援活動などもしました。
 35歳の時、市長と職員組合が対立して、私を含め4人が免職となり、市役所を去りました。免職の直接の原因は、公務執行妨害と暴力等処罰に関する法律違反で逮捕、起訴され有罪となったことです。対立の根本原因は市長の職員に対する不公正な処遇。市民の福祉を省みないで膨大な借金で箱物を建築する政策への批判などでした。清掃工場の民間への下請け政策批判などもありました。弱者へのいたわりない政策の批判でした。母はこうした私の市役所での出来事や首になったことを心配しておりました。たぶん、息子のいたらなさや自分のいたらなさを悔いて、神さまに息子を助けて下さいと祈ってくれたことだと思います。
 60歳の時、自治労という労働組合本部を定年退職しました。免職になってから27年。退職してから2年たった平成22年春、私は母が信じていたキリスト教、その教会に行ってみようと突然思いました。若くして夫をなくし、状態の悪い農地を女手一つで耕してきた母の支えはなんだったのだ、と思ったことが教会に向った一つの理由です。
 教会に行くようになって3年後の昨年5月、ペンテコステ礼拝で石橋牧師から洗礼を授かりました。母が信仰していたクリスチャンに、私も連なることができました。神さまのご計画に唯々、驚くばかりです。イエス様の十字架の死は、私にとってどんな意味があるのか。その意味が理解できた時、主の復活が真に自分のものになると思います。過去また今、犯した罪の重さが、イエス様の手の痛さ脇の痛さであると確信しています。
(まさき よしのり)


二つの出逢い
鈴木 洋史
 「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)
 主イエスと長期間行動を共にし、主が口にする多くの譬え話を自らの耳で伺い、数々の奇跡を自らの目で見てきた弟子でさえ、自身の指を主のわき腹に入れるまで、その復活が信じられませんでした。
 それから2千年程過ぎた現代に生きる私は、主のわき腹に指を入れることは無論、復活された姿、声を聞くことも出来ません。
 しかし幸いなことに私は、主の復活を信じ、受洗することが出来ました。
 クリスチャンホームに生まれた訳でもなく、中学生になるまでキリスト教と接する機会が全く無かった私が、信仰者となることが出来たのは、「聖書」との出逢い、「教会」との出逢い、この二つの出逢いがあったからこそだと感謝しています。
 中学生になり、初めて接した聖書は、私にとってとても魅力的なものでした。旧約聖書の中のノアの箱舟や十戒、ソロモン王とシバの女王などの様々な話に、歴史を感じさせられずにはいられませんでした。また、新約の福音書の主イエスが話された譬え話は、物事を考える上で、日々の生活を送った上で、良い参考となりました。
 しかし、子どもの幼稚園が縁で越谷教会と出逢い、礼拝に出席するようになるまでの私にとって聖書は、「神の言葉」ではなく、ギリシャ神話や三国志、もしくは最近人気の自己啓発本とあまり変わらない「書物」でしかありませんでした。
 それだけではなく、信仰を持たずに、「間違った眼鏡」で聖書を読んでいた時は、様々な解決すべき問題を聖書の中に投影させてしまい、聖書本来の意味を誤って用いていた気もします。
 教会に赴き、礼拝において主を賛美し祈りを捧げ、説教で御言葉を伺う。この繰り返しがあって信仰を持ち始め、私にとっての聖書が少しずつ「真の聖書」へとなって来たと考えます。車の両輪という言葉がありますが、私にとって信仰の両輪は、(多くの方もそうかもしれませんが)「聖書」と「教会での礼拝」です。
 情けない話しですが、受洗して間もない現在の私は、礼拝に参加し続けないと信仰を持ち続ける自信が持てません。そして、毎週の礼拝への出席による教会との繋がりこそが、信仰の基礎であり、心の中の平安にもなっています。
 「主の生ける力を知る」との主題をいただいて困ってしまう程度の未熟な私ですが、聖書の学び、礼拝への出席を通じて、自らの信仰心をより強いものと為らしめて、多くの信仰の先輩方に近づいていきたいと考えています。    
(すずき ひろし)
越谷教会月報みつばさ2014年3月号特集「主の生ける力を知る」より


特 集