今月の特集題 主の約束に希望をもち
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N.I |
![]() とても一人では生きていく力もなく、世の中は知らない事ばかり。今ここで一人にされたら、私はどうなってしまうのだろう、と。きっと私と同じような不安を抱えてた子は大勢いたのではないかと思います。 昔も今も夜は子どもを孤独にしますし、寝るのは怖いものだからです。ただ、その不安の中にある大勢の子どもの中にあって、私は大変幸運な事に、速やかに必ず効く特効薬を持っていました。「祈り」です。 不安でドキドキしていた胸も、ひとたび「天の父なる神様」と祈りだせば、キンと冴えて澄み渡る冬の夜空の様に落ち着いたのです。 神様が祈りを聴いて下さっているのだから、と不安は掻き消え何も恐れるものはなくなり、祈りを終えた後は安心して眠りにつく事が出来ました。子ども特有の、何も疑うことのない純粋な信じる心のなせる祈りでした。 そして時が経ち、自分が子どもだった頃なら「おばちゃん」といっても良いような年齢になった今(決しておばちゃんではないですが!)もうあの頃の様な、何も恐れるものがなくなる祈りをする事は出来ません。何故なら、祈りが必ずしも自分の望む形で叶えられるとは限らない事を、もう知っているからです。 ![]() 自分の弱さや罪を思う時に初めて、主の愛が身に沁みるのではないでしょうか。こんな自分で良いのだろうか、と打ちのめされ自己嫌悪に落ち、妬み、すぐに自分可愛さに誰かを下にみる。そんな人間を、神様は愛し赦して下さったのです。赦されて良いのだろうか?と自問しても、それはもう断固として主が貴方の罪を贖うために十字架についてくださったのです。 「私の愛を信じなさい」と言ってくれています。途方も無く考えられないくらい大きく力強い愛だと思います。その愛に包まれている!と知った今では、子どもの頃の何も恐れるものはないという安心よりも、自分の弱さを見つめたいです。そこにこそ強さ、があって希望があるのだ、と思うからです。 |
(N.I) |
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小林 利和 |
みつばさ原稿を引き受けたものの、文章が進まず、締切が目前に迫ってしまい、「約束が守れないかも知れない・・・」と思い悩んでいました。![]() さて、本題に戻りまして、主題である「主の約束に希望をもち」のテーマである「約束」という言葉を、自分なりに考えてみました。私にとって「約束」とは、守ろうと努力し、守ることで、自分が活かされているのかも知れない、と、思うのです。 家庭や仕事等、私が生活する環境の全てに対して、そう思えるのです。 仕事では、会社と交わした約束である目標を達成することで、お給料を頂き、生活の糧を得ることができています。現代の会社の給与システムは、昔のような年功序列ではなく、評価制度と言って、仕事の目標を立て、達成度を評価され、期待に応えられたか否かで、お給料が決まります。そんなきびしいシステムですが、自分の立てた目標が、会社との約束になるわけです。 ![]() ですので、その約束は、絶対に守らなければなりませんし、その約束を守ることで、これからの人生において出会うであろう、さまざまな困難から、神様は救って下さると信じております。 ルカによる福音書12章22節に「思い悩むな」という教えがあります。 聖書のこの部分は、日々の生活に思い悩む必要はない。神様を信ずれば、日常の生活の糧や衣服は自ずと用意され、人々は生かされる、という内容の教えではないか、と、勝手に解釈しています。 思い悩まず、神様を信ずれば、神様は我々が生きる力を下さいます。 約束を守り、思い悩まず、神様を信ずる日常を過ごせば、神様は、必ず私達を生かしてくれるのだ、と、希望が湧いてきます。 第一礼拝は、私の生活の一部になっていますが、相変わらず石橋牧師の説教に心地よくなって寝てしまうことを、どうかお許し下さい。 |
(こばやし としかず) |
越谷教会月報みつばさ2014年2月号特集「主の約束に希望をもち」より |
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