今月の特集題 主の約束の内に生きる
豊川 昭夫 |
約束と言うと、子どもの頃よく「指切り拳万(げんまん)嘘ついたら針千本飲〜ます」と言っていた事を思い出します。それにしても針一本だけでも飲む事は大変なのに、針千本飲ますとは、随分残酷なことです。因みに拳万とは握り拳(こぶし)で1万回殴ることです。まあ、それだけ約束は大切と言うことでしょうか。それに比べ今の政治家の約束(公約)と言ったら・・・(苦笑)。一方、神様の私達への約束はどうでしょうか。 丁度1年前に右目が網膜剥離になってしまいました。30年前は失明した病気ですが今は、手術で治ります。しかし、術後が大変なのです。硝子体手術をした後に目の中にガスを入れて、その浮力によって剥がれた網膜をくっ付けるのです。この為、何日間もうつ伏せ状態で寝なければいけません(勿論起きている時も下向き姿勢です)。皆さん、うつ伏せで一度寝てみてください。10分間も出来ません。まず腰が痛くなります。次に、額、顎、胸と痛くなって、絶対悲鳴を上げます。ですから夜も朦朧としながらも寝たくても寝ることが出来ないのです。羊が一万匹いても不可能です。ありとあらゆる努力をしても10分間が限界です。 片目はお岩さん状態で眼帯をしていますので、本や新聞を読むことは出来ません。ラジオを聴いている時間が多くなりましたが、ある時私がいつも礼拝で録音している石橋牧師の説教を聴いたところ、ナント途中から寝られたのです。いつも石橋牧師の説教は30分弱です。20分は寝たでしょうか。それこそ「ヤッター!」です。それから何日間も辛い時や苦しい時は、石橋牧師の説教を聴くことにしたのです。何回聴いても不思議と途中で寝てしまうのです。これは、実に助かりました。石橋牧師の説教がつまらないから寝られるのではないのです。石橋牧師の説教を聴くことによって、心地好くなって寝られるのです。雑音とか、うるさい音とか、不安な話だとかでは人は寝ることは出来ません。神様の愛に包まれた話であり、心地好い声だから寝られるのです。母親の子守唄と同じです。それ以来私は、礼拝中に眠らせる説教は、いい説教、最高の説教だと思っています。以前私の母は、「礼拝中寝てもよい。何故なら神の言葉は毛穴から入る」と言っていましたが頷けます。(但し、礼拝に出ないと神の言葉は入りません) 一年前のこの事を思い起こすと今は、本当に幸せです。詩編46編2節に「神は・・・苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」とあります。聖書は実に凄いことが書いてあると思いましたが、同時に本当に助けて下さるのかと以前は半信半疑でした。しかし、この網膜剥離の病気を通して今は 苦難の時に神様は必ず私達を助けてくださる と確信し、この大いなる神様の愛に応答する生き方が出来たらと願っています。 |
(とよかわ あきお) |
浅川 信秀 |
2013年のキャンドル・サーヴィスも多くの方とともに祈りを合わせ、たいへん豊かなひと時となりました。ここ数年、ポスター等の印刷物のご奉仕をさせて頂くようになりました。毎年の事なのですが、ポスターのデザインについては半年前からじっくりと作り上げていきます。もっとも素人ですので、好みや解釈は見る方にゆだねているのですが、製作者としての意図というものもあって、この度書かせて頂きました。まぁ、ちょっとした裏話という具合でお読み下さい。 |
【根底にあるのは震災への想い】 石橋先生が、震災・復興への想いを依然として強く抱えておられ、また教団総会議長としての様々な重責もあると考えています。当然、 説教題の「新しい天と地」ということにも深く考えさせられ、これを重く受け止めつつ素直に表現したいと思いました。 【主題とするモチーフは雲】 雲を選んだ理由は二つありますが、一つ目は、実際の礼拝は夜行われるわけで、どんなに明るく美しい青空も見ることは叶いません。しかし、私たちが目にする暗い夜空は、明かりがあれば美しい空となり、見えないだけで確かに存在していると言えます。つまり、見えている暗い夜空は悲しみや、苦しみだったり、絶望だったり…。しかし、見えないだけで、希望の空は存在しているのです。 祈りをあわせキャンドルの灯りとともに、見えないものを見えるものとしたい、そんな願いをこめて夜空・雲を選びました。 二つ目の理由は、津波をもたらした海の水は、やがて蒸発して上空では雲となります。 悲しみを運んだ海の水も、美しく広がる雲も、同じ水でできており、そのどちらも主の賜物だと思うのです。 私たちは、自分にもたらされた重荷には苦しみを覚え、いらないと感じてお返ししたくなります。でも、もしかしたら、それはいずれ形を変え私たちが素直に喜び感動できる類のものになっているのでは、そんな想いを重ねてみました。 【写真のレタッチ(合成・加工)】 昨年までと違って、今年は写真をベースにしたデザインになっています。これは、今、石橋先生の中にある想いや視線は、より身近なもの・現実的な苦難や問題へと向いているのでは、と考えたからです。従って抽象的なデザインではなく、現実的・具体的な印象を強めるために写真によるデザインとしました。 以上、自分の想い中心ではなく多くの想いを表す作業は楽しい反面、畏れを感じます。やはり、趣味で描く時とはまるで別次元で、神様がそばにいてくださることを感じ、感謝できる機会になっています。 |
(あさかわ のぶひで) |
越谷教会月報みつばさ2014年1月号特集「主の約束の内に生きる」より |