今月の特集題  主のみ言葉を伝える




主よ語れないわたしをおゆるし下さい
貴田 陽一
 み言葉を聞く、OKです。み言葉を学ぶ、ややOKです。み言葉を信ずる、これも出来ます。み言葉を伝える、いやこれにはごめんなさい、です。
 越谷市青年団、団員の時、しばしば団員の仲間から、団に何等かの問題が起こった時、クリスチャンの貴田君ならこれをどう考える、と質問された事がしばしばありました。
 その中で私の心に痛みとして残った一事件があります。副団長の時でした。一人の団員の除籍をめぐっての役員会の席でした。事は団員の中で、直前に行われた県議選に於いて、保守の候補者を中心になって応援し、他の団員にも呼びかけた事から団内で軋轢が生じて団を二分しかねなくなった時の事です。副団長の私の発言が事を左右するという場面に遭遇しました。
 団長は「政党の学習はするが、選挙にはかかわらない」と言うものでした。
 しかし彼には止むに止まれぬ事情がありました。私は除籍止むなしと発言し、それが決定となりました。キリスト者の私には「許してやれないか」の思いが渦まいていました。それから十数年、彼との和解が「お互い若かったね」のひとことで出来ました。以来良き友として今日があります。
 以来、いろいろな場面でキリスト者としての発言の必要性と要望に遭って来ました。しかしそれがどれだけ響いていくでしょうか。
 私達は多くの人々の中で生活しています。私はその人たちの中にイメージが定着しています。80年の人生は、それをそれなりに形づくっています。
 そこでつくづく思うには、言葉ではなく、証し人であらしめたまえと祈り求めることかな。
 同時にみ言葉の輝きの中に生かされることではないかな、と思うのです。
 その力が私に与えられるとしたならば、日曜礼拝の中にきりありません。
 私はこのことを6歳の時から続けています。戦争の中も、転勤で名古屋に行っていた6年間も、しかしその歩みは平坦ではありません。時にはうめきながら、時には苦しく感じながら、時には砂を噛むように思う時がありました。
 しかし今、それらははるかな思い出となりました。しかし変わらずそこに立ち続けて下さった主イエスさまが居て下さいました。今ごろになって何言うの、と言われそうですが、教会は、日曜礼拝は人生の訓練道場であり一人一人が命がけで応答しうる絶大な価値を見出す場です。私は天に召されるその日まで、み言葉に満たされ励まされて、主よ願わくば、あなたの証し人たらしめたまえと祈りつつ、越谷教会の礼拝の一員であり続けたいのです。
(きだ よういち)


ふさわしい言葉で
薩摩 雅宏
 以前こんな説教を聞いたことがあります。
 「天気予報によると、大雨が降る予報が出ている。川の土手にあるミミズの国は、その大雨のため水没してしまうかもしれない。さて、あなたはどのようにしてミミズの国を救いますか?」
 さて、どうしたものだろうと考えたとき、ミミズの国ごと他の土地に移したらいいのではないだろうか?
 「それでは、ミミズはビックリしてしまい逃げ出して掴まえられないのでは?」 
 では、上から大きなものを被せて水が入らないようにしたらどうか?
 「でも、大水で一緒に流されてしまうかもしれませんよ。」
 では、どうしたらいいのでしょうか?
 「簡単なことです。あなたがミミズになってミミズの国に行き、大声で叫ぶのです。『大変だ!大水がくるぞ!みんな、逃げるんだ!』と。
 実はイエス様も神の姿でありながら人の形をとり、天から降りて私たちを救おうとされたのです。必死になって、罪から人を救おうとして十字架につき、三日目に甦られたのです」。
 もし、イエス様が神の姿でこの地上にお出でになったらどうだったでしょうか?それは、きっと誰もが信じたでしょう。でも、心から?神の絶対的な力に否応無しで従っているだけかもしれません。もう一つ問題として、その後の時代の人々は救われるのでしょうか?
 イエス様がクリスマスに最も小さく無力な赤ん坊として地上に来られたのは深い深い意味があるようです。神の威厳高き言葉ではなく、市井の人々と同じ言葉で。そこには『人を愛し、救おう』とする愛に満ちた言葉が語られたのです。
 翻って考えてみます。教会学校の子どもたちに語るとき、それは子どもたちのように語る必要があるようです。幼稚科、小学科、中高科それぞれの言葉で語ることが必要です。分かるようにみ言葉を伝えなくてはなりません。これは、決して子どもたちに迎合するということではありません。パウロも言っているように『幼子には幼子のように語りました』と。そして、幼子のようにみ言葉を受け入れなくてはならないと思うのです。
 あなたは、ミミズになってミミズの国を助けにいけますか?ミミズが信用してくれないかもしれません。そうしたら、大水で一緒に流されてしまうかもしれません。でもイエス様は、人の姿となり神の愛を伝えるために世に来てくれました。だとしたら私たちも躊躇せず、福音を伝えましょう。その人たちにふさわしい言葉で。
(さつま まさひろ)
越谷教会月報みつばさ2013年12月号特集「主のみ言葉を伝える」より


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