今月の特集題  み言葉から確信に立てさせられ




毎朝の礼拝
清水 広幸
 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」テモテへの手紙二 4章2節
 聖学院中高では、今年4月より数十年ぶりに毎朝全校礼拝を守ることに踏み切った。昨年まで学年毎週1回だった礼拝を、六学年の生徒及び教職員で礼拝を守っている。朝8時25分、講堂に950名が入場着席し奏楽が鳴り響く荘厳な雰囲気の中で全校が会して礼拝を守ることは大きな喜びだ。
 この計画は教職員有志で毎朝7時35分から欠かすことなく守る祈祷会で生まれた。キリスト者や求道中の教職員が祈る中で、毎朝心を静め全校生徒たちと恵みを分かちたいという祈りが実現したのだ。全校礼拝は授業前15分間であるが、生徒・教職員には神様の言葉に耳を傾ける大切な時だ。
 準備段階当初は、きっと生徒が嫌がるかもしれない、授業熱心な教師らが開始時間が遅れることなどから反対すると考えていた。しかし、実際はキリスト者は勿論だが、それよりも非キリスト者教員から、「必要だと思う」と前向きな発言が多く励まされた。講堂は満員だが静かに礼拝を守り続けている。我らの心配は杞憂であった。
 私は礼拝が始まる瞬間、オルガンが鳴り黙祷するその瞬間が好きだ。生徒はその時、何を思って頭を垂れているのだろうか?真剣な眼差しに、きっと自分なりの「何か」を求めているのではないか。心の空洞を埋めるのに相応しい言葉?そうではなく、自然に空気のようにスッーと心の中に入り込んでくださるイエス様の存在かもしれない。
 困った事が起きた。二週に一度奨励当番が回ってくる。自分が語るとは想定外、全校礼拝・・・中1と高3では精神的成長はまるで違う。まして全教職員も聞いている、しかも奨励時間7〜8分以内時間厳守だ。神の言葉を語るはまさに神業だ。取り敢えず1学期から合計6回のご奉仕が終わった。
 ある日、廊下ですれ違った生徒が突然私に言った。「先生の話し、すごく励まされました。僕は先生の話しが楽しみです!」アッーなんといい生徒だろう。1000人近くもいれば一人位は評価してくれる生徒もいるものだとウキウキしながら自席に戻れば、机上に今後の予定表が置かれていた。見ればあと8回…しばし沈黙、でもやるしかないと言い聞かせている。
 中高生は多感で人生の土台を作り上げる貴重な時期である。同じ制服を着て皆同じように見えても内実は全く違う。家庭のことや勉強のこと等々、心の奥底には様々な葛藤や苦しさ悲しみを抱えている者も多い。一人びとりに神様の愛が届けることができるように、拙いけれどもその証ができたらと願っている。在学中に一人でも多くの生徒が礼拝から押し出されて教会と神様につながる橋渡しをしたい。今週も生徒に語り続ける一人でありたいと願っている。
(しみず ひろゆき)


みことばに確信を与えられること
百武真由美
 私が小学校一年生から通った教会学校のクラスでは、毎週「暗唱聖句」が行われていました。その日の説教に合わせて、一つの聖書のことばが選ばれていて、分級の時間、出席をとるとまずはじめに、みなでその日のみことばを覚えました。そらんじて言えるようになると、ごほうびシールがもらえるのです。上級生のクラスになると、その日の暗唱聖句とは別に、前の週の暗唱聖句も発表するように求められました。一週間たっても、みことばを忘れていないか、のテストです。忘れんぼうの私は、分級のお部屋に行く前、こっそりと先週のみことばを確認するのが常でした。何の気ない、日常的な出来事でしたが、しかしあの頃心に蓄えたみことばがその後の私の支えとなり、確信となりました。
 私の人生のつたない経験の中でも、特に誘惑や試練に出合った時、心に浮かんできて私を支えたのは、幼い日に暗唱したみことばでした。あの頃歌ったこどもさんびかと一緒に、聖書の短い一節が心をよぎって、何度も守られました。辛くて悲しくて心が折れそうになったときには、やはりあの頃覚えたみことばが、当時の教会学校の先生のやわらかな声と共に聞こえてきて、再び祈る力が与えられました。
 私にとっての献身も、神学校への入学も、伝道者への訓練の一つ一つも、やはり日常の中で聴き続けたみことばに背中を押されてこそのものであった、と思います。
 よく「献身する時は、何か劇的な出来事があったの?」と尋ねられますが、私の場合はそうではありません。いつも聴いてきたみことば、日々読んでいたみことばが、その時もう一度聴こえてきて、みことばの与え主にもう一度、しかし新しく出会った感じでした。特に小学三年で暗唱したマルコによる福音書16章15節が頭から離れませんでした。三行のみことばに、召命の確信を得ました。
 ですからみことばに背中を押されたり、みことばから確信を得る、ということも、何か非日常的な特別な出来事を通してでなく、いつもの礼拝、いつもの祈り、いつもの日々の静まりの時に聴くみことばを通してなのではないか、と思います。なぜなら、何か起こったときに(だけ)神さまが語りかけて下さるのではなくて、神さまは私に毎日、ねんごろに語っていて下さるからです。だから、「あの特別な時、みことばが私の決定的確信になった」というよりも、毎日みことばから確信に立つように促されているような気がします。「主は私を愛して、ともにいて下さっている。だから、私も主に従おう。キリストの御跡を今日も行こう。」と。
(ひゃくたけ まゆみ )
越谷教会月報みつばさ2013年10月号特集「み言葉から確信に立てさせられ」より


特 集