今月の特集題  みことばに慰められ




主に生かされて
荻田久次郎
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネによる福音書15章16節)
 私は神奈川県の丹沢山系の裾野、愛川町という山間の清らかな川の町に生まれました。家は曹洞宗勝楽寺の古くからの壇家でお寺様には常日頃から出入りしておりましたので、宗教は即お寺様、仏教としか考えられませんでした。
 そのような環境で育った私に転機が訪れたのは大学受験でした。京都の同志社大学、上智大学を受験し両校共合格、最終的に関東にある上智大学に進学を決めました。
 その頃は特にキリスト教に興味があった訳ではなく、入学金、授業料とも他大学より安く、外国語に興味があったのが理由です。当然カトリックの上智大学であるため宗教学が必須科目でフランス人神父から聖書を学びました。元々聖書に興味も無く、神を求めるのは本人が弱いからで、宗教を選択するのは精神的にも十分成長した後でよいなどと、答えておりました。当然宗教学は赤点、9月に卒業延長か?に、仲間の2人と一緒に就職担当教授に頼み込み、追試験でなんとか危機を脱出した次第です。
 就職後十何年か経ち、ある日空しい気分で通勤途中、一冊のギデオン協会の和英対訳の聖書を貰いました。その聖書を通勤電車の中でいつも読んでいました。そんな折、乳癌のため入退院を繰り返していた亡き妻が、闘病中に日本基督教団東久留米教会の浅野悦昭先生から臨床受洗し、平成6年6月に召天しました。その後私も東久留米教会の礼拝に出席するようになり、み言葉に慰められ、翌年のイースターに浅野先生より受洗致しました。大変遠回りでしたが、やっと神さまに選んで(救い上げて)頂いたのです。今思えば、気付いた時には神さまは既に私の傍におられ、声を掛け続けておられたのです。
 「『その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイによる福音書1章23節)
 神さまがイエス様を通し私を贖ってくださったのです。この恵みを未だ主イエスの御父である神さまを知らない多くの人達に分け与えたく、聖書を通してイエス様の救いに導かれます様にとギデオン協会に入会し今日に至っております。早朝の7時に学校の校門の近くに立ち、登校して来る生徒さん達一人一人に「バイブル・聖書です。読んで下さい」と言いながら手渡しております。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 (マタイによる福音書4章4節)
 そうです、聖書は神の言葉です。その一つ一つのみ言葉に慰められ、その一つ一つのみ言葉に生かされる毎日です。   
(おぎた きゅうじろう)


みことばに押し出されて
諏訪 幸子
 毎日のほほんと過ごしているように見えるでしょうが、人並みに悩んだり落ち込んだりいろんな事がありました。祈る事さえ出来ない時もありました。その都度、みことばに励まされ、ゴスペルに励まされ、仲間にどれだけ支えられたことかと思い返します。
 きっとみなさんにも好きな聖句、心の支えになっている聖句があると思います。私にもあります。でも聖書は不思議です。私がちゃんと読んでいないせいでしょうか、感性が鈍いからなのか、それまではさらっと通り過ぎていた聖書の文字が、突然生きた神のみことばとして、心に響いて沁み渡ってくる事があります。何気なく開いたページに、まさしく今、私に訴えかけて下さるみことばに出会う事もあります。その時その時に必要なみことばを神様は用意してくれているんだと実感します。聖書は時空を超え、今の私達に語りかけて下さいます。
 でも、一人で聖書を読んでいても限界があります。読んでいても解らない事もたくさんあります。一人よがりの勝手な解釈をしないためにも、礼拝で新たな恵みをいただくためにも、日曜日の礼拝を大事に歩んでいかなくては、と思うのです。
 この原稿依頼を頂いた5月、私は19日のペンテコステの日は幼稚科の説教、26日は小学科での説教と続いていました。聖書を読み、『教師の友』の聖書研究を何度も読み、時には『信徒の友』の特集を読んでみたり、ノートを見返してみたり。悶々とした日々を過ごします。このみことばから何を伝えたらいいのだろう?子ども達にどう話したら伝わるだろう? と考えながら、「語る言葉を与えてください」と祈りながら準備します。前日の土曜の夜は大抵、原稿が出来てもスッキリすることはなく、頭がキンキンしたまま眠りにつきます。
 今回ちょうど、弟子達に聖霊が与えられ、派遣される箇所でした。子ども達に「聖霊は今も、注がれている。神様は今この時も、神様のお手伝いをしてくれる人を求めておられる。難しい事じゃなくて自分に出来る事をやればいいんだ。私に出来るかな?と心配になるよね。でも大丈夫。イエスさまが一緒にいてくださるから」と締めくくりました。私の確信です。私自身を励ましている言葉でもあります。(自分の出来る事と言いつつも、私は背伸びしっ放しですよ、神様)。神様が欠けの多いこの私を附属幼稚園の保育者として、教会学校の教師として遣わし、用いて下さっている恵みに感謝して、「足りないところにこそ、神様が臨んでくださる」事を信じて歩んで行きたいと思います。      
(すわ さちこ)
越谷教会月報みつばさ2013年6月号特集「み言葉に慰められ」より


特 集