今月の特集題  新しいみことばに聴く




内なる人は日々新たに
山口 明子
 受洗してから4年足らずで、聖書の学びの緒に就いたばかりの私には、聖書のみことばは、旧約の第一行から、新約の最後の一行にいたるまで、すべて新鮮に感じます。聖書の聖句は簡潔で短い言葉で書かれていますが、その一つひとつが、時を超えて常に新しく、普遍的な深い真理を語っていることに驚きます。ですから、礼拝の度に説かれるみことばを聴いていると、毎回何か新しい発見をし、感動し、礼拝に参加することを赦されている身の幸せに感謝しています。
 このように私が聖書のみことばに心開かれるようになったのは、土の器である外の人が傷んでしまい、器として使いものにならなくなってからでした。器の破れ目からしみ込むように、神のみことばが、内側に響いてくるようになりました。聖書は不思議な書です。人間がどのような状況に置かれようとも、絶望しないようなみことばがちりばめられています。
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレトの言葉12章1節)とありますが、私にも若い日に信仰へ導こうとしてくれた友がいました。しかしその頃の私には、神のみことばがなくても、人はパンだけで生きられると思っていたのでしょうか。全然みことばが理解できませんでした。そのために、暗闇をさまよっているように、人として許されないような、過失ばかりを積み重ねてきました。そんな私を、神は見捨てることなく、救いへの道を備えて待って下さいました。(十字架を仰ぎ見て生きること)
 それによって、あなたは何が変わったかと問われると、私の生活態度は、旧態依然として、相変わらずのダメ人間ぶりです。しかし心象風景にある変化が生じてきました。自分では、かくあるべしと少しも努力しなかったのに、いつの間にか、それまで自分を束縛していたこの世的な重荷から解放され、自由で、しなやかで、主イエスがいつも共にいて下さるような心強い明るい世界が広がり、すべての存在物を尊重することができるようになってきました。世界観が逆さまに変わってきたというのでしょうか。そして、私のような者を引き寄せて下さったことにただ感謝です。まことに「主イエス・キリストの恵み、神の愛」(コリントの信徒への手紙二 13章13節)のみことばが生きて胸に迫ります。
 新しい年を迎えるにあたり、この賜物を内なる人から外なる人へも作用させ、内外共に、日々新たに生きられるようになりたいと願っています。
 「だからわたしたちは落胆しません。
  たとえわたしたちの外なる人は
  衰えていくとしても
  わたしたちの内なる人は 
  日々新たにされていきます」
(コリントの信徒への手紙二 4章16節)
(やまぐち あきこ)


夕礼拝にもでませんか
鈴木 洋史
 聖書との出会いは今から30年以上前になりますが、真剣に読み、考えるようになったのは受洗した2年位前からです。そして最近は「聖書は難しい」「パウロは偉い」などということを考えています。
 私は仕事等の関係で、主に夕礼拝に出席させていただいております。夕礼拝はご存知のように主に棚橋牧師が説教を担当され、現在は「ローマの信徒への手紙」を、以前は「コロサイの信徒への手紙」、「テモテへの手紙」などのパウロによって書かれたとされている新約聖書を拝読し、御言葉について学んでいます。恥ずかしい話ですが、今までこれらのあまり有名?でない福音書以外の書簡をきちんと読んだことがありませんでした。
 今では礼拝に参加する前に必ず、また司会を担当させて頂く時には、数日前から聖書の箇所を何度も読むようにしています。しかしこれらのパウロによって書かれた聖書の箇所は、私にとってはとても難しく感じられ、どのような意味で書かれているのか何を伝えたいのか理解に苦しむことが度々あります。
 しかし礼拝に出席し説教を伺うと、パウロが伝えたかったことやその時代背景、また旧約聖書との繋がりなどとても良く理解することが出来ます。そしてそこには、少しずつですが神様との繋がりを強くした自分の存在がある気がします。
 聖書を正しく理解し、信仰をより確かなものとするためには、何よりも礼拝に出席することが大切であるということを強く感じます。
 またパウロの手紙の御言葉を学んでいますと、本当にパウロの偉大さを感じずにはおられません。聖書には、ユダヤ教ファリサイ派に属し、キリスト教徒迫害の先頭に立っていたサウロ(パウロ)の前に天から主イエスが姿を現され、その教示によって回心し、逆に熱心に布教活動を始めたと記されています。この主イエスによる奇跡とパウロによる文字通り命をかけた伝道がなければ、多分私たちはキリスト教と出会うことが出来なかったことでしょう。全く感謝の言葉以外には浮かびません。
 現在、伝道の危機が言われていますが、多くの先人たちの苦労によって伝えられた神様の教えを正しく広め、次世代へと引き継いでいくことは、洗礼を受けた者全ての人の責務ではないでしょうか。
 その責務を少しでも果たすためには、教会との繋がりを大切にするのと同時に、受洗者として礼拝から押し出され、社会に対して、常に信仰の上に立った日々の生活を示すようにしていければと考えています。
(すずき ひろし)
越谷教会月報みつばさ2013年1月号特集「新しいみことばに聴く」より


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