今月の特集題  クリスマス




待ち望む
田坂 邦彦
 礼拝堂のキャンドルに火がともるとアドベントに入る。心静かに神のひとり子が私たちのために与えられた喜びを味わうクリスマスでありたいと願っている。
 アドベントは私たちキリスト者にとって主を待ち望む時である。二千年前に神の子イエス・キリストがユダヤの地に生まれてくださった。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)
 キリストの誕生の意味を知らされている私たちにとって、赤ちゃんイエス様が誕生した喜びにとどまらず、私たち(私)の救いのために十字架上で死ぬために来て下さった大きな出来事なのである。
 私にとって69回目のクリスマス。振り返ると幼児、小学校時代は心をわくわくさせながらクリスマスを待っていたように思う。中学、高校時代のクリスマスの思い出の中で、なんといっても忘れられないのは、高校1年の時の受洗したクリスマス。両親をはじめ教会の多くの人々の祈りの中で育てられ、はぐくまれた信仰の種が実を結び、今もキリストにつながる枝として生かされている幸いを思う。今思うと私の心の中に光がともった時である。その光と温かさをひとりでも多くの教会学校の子どもたちに、またまわりの人たちに分け与えられたらと思う。
 クリスマスの出来事は、二千年前の遠い国の出来事ではなく、私の心の中に来てくださった神のひとり子の出来事である。
 広辞苑で「待ち望む」を引いてみた。我が家の広辞苑には「待ち望む」についての記述は無かった。日本の仏教をはじめとする宗教には「待ち望む」という概念は無いのかもしれない。一方パソコンで「待ち望む」を検索すると、多くのキリスト教関連の記述があり、その中のある牧師の説教の中に「神のひとり子を待ち望む」意味は二つあり、一つはクリスマスの出来事であり、もう一つは再臨のキリストを待ち望むこと、とあった。
 現実の世の中はあわただしく、希望よりも不安が、光よりも混沌が渦巻いているかもしれない。世界に目を向ければ争いが絶えず、イエス・キリストがお生まれになった国イスラエルでは今でもパレスチナとの間で戦闘が止むことが無い。
 いつになったら全世界が平和なクリスマスを迎えることができるのだろうか。
(たさか くにひこ)


クリスマスの光と影
舟橋 葉子
 越谷教会のキャンドルサーヴィスに初めて参加したのは2005年のことでした。その年の8月に教会に足を踏み入れてから楽しみに待った最初のクリスマス。仕事帰りに電車で来たら、夜道で迷い焦ったことを思い出します。ようやく着くと、蝋燭を手渡され、火に緊張しながらもロマンティックでいいなあと喜びました。パワーポイントによる映写に感心し、石橋先生の讃美歌版「主の祈り」に感嘆し、諸貫先生のソロに感動しました。弦楽カルテットを間近に聞いたのも思いがけない喜びでした。それまで、街に溢れるキラキラした飾りにテンションをあげ、はずむようなリズムのクリスマス曲を聴きながらローストチキンを食べる、そんなクリスマスを過ごしてきたので、これが本当のクリスマス、と思って満足しました。
 しかし、教会に通い聖書を学んでいくと、クリスマスは光の側面ばかりではないことがわかってきます。聖書には12月25日にイエスが誕生したとは書かれていないので、この時期に降誕を祝うことへの疑問も生まれます。家畜小屋で生まれたばかりのイエスを包んだと書かれている「布」、これは家畜の死骸を包むための布だという説があるそうです。東方の三博士が贈ったもののうち、没薬と乳香は死者の埋葬に使うものだったとか。そしてメシアの誕生を恐れたヘロデ王によって、ベツレヘムの2歳以下の男児は一人残らず殺されました。最初のクリスマスは死の影に満ちています。そればかりか、人間は必ず死ぬ、という一般論を越えて、イエスが私たちの罪のために十字架の死に向かって歩き始めたのだということを私たちは知っています。
 それを思うと私が「本当のクリスマス」と思ったのはもしかしたら本当ではなかったのでしょうか。
 そんなシロートの私がキャンドルサーヴィス委員会に入れていただき、皆様をお迎えする立場に立って5年になろうとしています。神様から、最初の感動を忘れずに奉仕せよと言われたのだと思いました。越谷教会では新年度が始まると早々にキャンドルサーヴィス実行委員が選出され、委員会が歩きだします。他教会に聞いてもこんなに早くから周到な準備をする所はなかなかありません。石橋先生に聖書個所と説教題を決めていただき、それに沿って教会員全員のご協力をいただきながら準備を進めます。重要な課題のひとつに、教会員でない方にもこれを機会に教会のクリスマスを味わっていただこうという思いがあります。そういう方々に「死の影が漂うクリスマス」はふさわしくありません。ろうそくの灯りの中での礼拝に、救い主をこの世に迎えた喜びをただ思う。私たちが喜んでいるのだと感じていただく。それも「本当のクリスマス」だと今は思います。教会への最初の敷居はできるだけ低いほうが望ましいのですから。24日は心から楽しみ、クリスマス礼拝は真摯に祈る、そんなクリスマスを過ごせる私たちは贅沢だと言えますね。
(ふなはし ようこ)
越谷教会月報みつばさ2012年12月号特集「クリスマス」より


特 集