今月の特集題 熱心に聴く
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一柳 茂樹 |
つい、この前まで50歳台、まだ先は長いよ、と構えていました。第三者の話は適当に聞き、適当に相槌を打ち、適当にやり過ごしてきましたが、アッという間に月日は飛び去り、9月には65歳。まさに「日暮れて四方は暗く」の感です。![]() このように還暦の折返し点にいますが、振り返ってみると人の話はいい加減に聴いていました。 ここぞという時、熱心に聴いたことがあるか、と自問してみると「ウーン?ないな」と答えざるを得ません。小学生のころ、おやじの小言を無視して尻を叩かれ、中・高校時代は落着きがない、と通信簿に書かれ、大学に入っても友達から「お前は自分の意見は通すが、人の話はまるで聴かない」と散々でした。 日曜日は、牧師の説教をしっかり聴き留めておきたいと思い、手帳を持参します。しかし、聴く側の思い・私見が強くて説教の筋を覆ってしまうことを繰り返しています。 司会者が「聴く私達の心を整え、み言葉を素直に聞くことが出来ますように導いて下さい」と祈りますが、それができていません。また、聖餐式の際に牧師が「信仰をもって心のうちにキリストを味わうべきです」と諭します。信仰とは心を明け渡すことであり、それができれば雑念は入らず、自ずと熱心に聴けるでしょう。 ![]() |
(いちやなぎ しげき) |
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岡林 信雄 |
![]() では、聖書ではどうなのか、内容とか使った人の意思は分かりませんが、新共同訳では、「聞く」が、旧約聖書で90箇所、旧約聖書続編で27箇所、新約聖書では69箇所です。また「聴く」は旧約聖書では見当たりません。旧約聖書続編は2箇所でいずれもシラ書(集会の書)にあり、新約聖書ではマルコによる福音書1章27節に一箇所のみ使われています。 シラ書3章29節には「知者の耳は、格言を熱心に聴く。」と今月のみつばさテーマ「熱心に聴く」が書かれています、またシラ書25章9節の中ほどから「聴く耳を持つ者に語ることのできる人。こういう人々は幸いだ。」とそして新約聖書ではマルコによる福音書1章27節には「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』」と記されています。 むかし田舎の教会で聞きかじった話ですが、「説教の途中からよく居眠りをする初老の人が、夏季伝道師として派遣されてきた神学生が説教をした時、瞬きもせず、一言も漏らすまいと熱心に聴いていました。神学生は『新鮮な力強い説教をすれば心ある人は聴いてくれる』と悦にいっていました。礼拝後ある人がこの初老の人に『今日は真剣に説教を聞いていましたネ』と聞いたところこの人は『先生の説教は安心して聞いてられるのでつい寝てしまうけれど、若い人は何を言い出すか心配で必死に聞いたヨ、でも久しぶりに説教を全部聞いて満たされた気分になったヨ』」。まだ「口語訳聖書」の時代で、普通の会衆は旧約聖書続編を知らない時の出来事です。たとえ中身が心配で聴いたにしても「聴く耳を持つ者に語ることのできる人。こういう人々は幸いだ。」の聖句そのものであった、と思います。 ![]() 知者でない私はまだ出来ていませんが、「聴く耳を持って聞く人になれるよう」祈りたいと思います。礼拝の司会者の方はこれを集った会衆を代表して祈ってくれていることに感謝します。私も心を合わせて祈り心から「アーメン」と祈ります。 |
(おかばやし のぶお) |
越谷教会月報みつばさ2012年7月号特集「熱心に聴く」より |
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