今月の特集題  祈りに支えられて




苦難こそ神に立ち返る時
石橋由美子
 みつばさの原稿依頼の少し前に“はぐくみ”という季刊誌に私が寄稿を推薦した方からお電話がありました。用件は福島県の被災地で働く同窓の保育者の現状と思いを書く事になったとの報告とその御礼でした。短時間でしたが震災、放射線問題と、多くの困難と不安の中で生きる日々でしたと言われたのをお聞きし今までの保育のご苦労を思い本当に心が痛みました。
 実は昨年の夏、石橋牧師と共に磐城教会、清風幼稚園に牧師就任式の為に出席しそのお祝いの席で清風幼稚園の園長先生(電話の主)にお会いし「近ければ同窓のよしみで保育のお手伝いをしますのに!」と思わず言ってしまう程、身に詰まされる“出会い”があったのです。
 その幼稚園は放射線問題を抱えつつ運動会を短縮して競技も“走る”をテーマに園庭で実現されたのです。又クリスマスにはカードを頂き、いつもと変わらぬクリスマスを迎えられたという事、磐城教会、清風幼稚園に石橋牧師が訪問し、祈られている事への感謝が書かれていました。私は人と人との出会いの中でみ言葉「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイの信徒への手紙3章14節)に出会いキリストに結ばれることで神と結ばれて救いに入れられ、喜びに与るという、聖霊の働きについて学ぶ事が出来ました。
 数年前には群馬のM姉から電話があり「私はもう長くないのでお会いしたいから来て欲しい!」と言われ、内心戸惑いつつお見舞いに伺いました。出迎えて下さったM姉のお顔はいつも通り穏やかで、彼女の祈る祈りの言葉は驚くばかりに明確なアッシジの聖フランシスコによる「平和の祈り」でした。私もその祈りに心が静まりました。しかし何故牧師夫人のM姉がこのように若くして病で入退院をくり返し召されたのかと自問自答して悲しみ、心は揺れしばらく平穏になれませんでした。M姉との交わりを回想していく内に与えられた祈りがあります。変えられることを変える勇気を、変えられないことを受け入れる心の平穏を、そして変えられることと変えられないことを知る叡智を授けたまえ。 (ラインハルト・ニーバー)の祈りの言葉に支えられ私は前進する事が出来ました。
 これからは東日本大震災の被災地の人達の実状を知ると共に二次災害の放射線の不安の中で生活を余儀なくされている方々の生活がより安全な方へと向います様に祈り続けたいと思います。さらにみ言葉「心が鈍くならないように注意しなさい」「いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカによる福音書21章34〜38節)を日々覚えて祈りつつ共に歩んで行かれればと願っています。そして土の器の様な私が今まで生きて来られたのは私が気付かないで過ぎたであろうたくさんの“祈り”があって今の私が在ると、心から思い、感謝の祈りへと導かれました。
(いしばし ゆみこ)


娘たち
雲見 昌弘
 小生には三人の子どもがいる。すべて娘である。三人目の赤ん坊も女の子であることが分かったときはかなり落ち込んだ。この現実を受け入れるのに一年以上の月日が必要であった。会社に行ってもなんとなくボーとして仕事に集中できない日もあった。これには二つの理由がある。一つは小生には妹が二人いるのみで兄弟はおらず、雲見という姓が消滅してしまうことである。もう一つは女の子三人を無事育てあげることは大変なことだと思っていたからだ。実際
 友人に娘が三人いることを話すと、「それは大変だ」としばしば同情された。昔、両親が妹二人の縁談を進めるため奔走していたことが記憶に残っており、それもプレッシャーの一因になっていたようだ。
 我が家の娘たちの場合、美人でもなく、また学業のほうも優れておらず何の特徴もない、ごく普通の女の子である。三人みんな結婚できるか、それぞれ家庭を持って上手くやっていけるか正直言って非常に心配であった。特に娘たちがいわゆる結婚適齢期にさしかかってからは日増しに心配が募った。良き伴侶が得られますようにと毎日神様に祈った。また娘たちにも日ごろから、出会いには限りがあるので一つ一つの出会いを大切にするように諭していた。日本にいるときも、ミャンマーに赴任しているときも一番気になっていたのは娘たちの結婚であった。
 小生の好きな歌手の一人に、さだまさしがいる。彼には多くのヒット曲があるが小生は「雨やどり」という曲が好きでよく聴いていた。娘たちもこの曲の歌詞のようになればいいなとひそかに願っていたものだ。小生の祈りを神様が聞いてくださったのだろう、いろいろ紆余曲折はあったが三人娘は無事結婚してそれぞれ子どもも授かった。こんな話を妹にすると、「兄さんは心配症だ。他の親はそんなに心配していないよ」と言われた。そんなものかなとも思う。しかし妹宅は息子二人で娘を持つ親の気持ちはなかなか理解できないのではと思う。
 娘たちの結婚にいたるまでを振り返ってみて感じるのは、自分の信仰の薄さである。聖書は言う。「疲れた者、重荷を負う者はだれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。御言葉に励まされ神様に全てをお任せしようという気になり、しばらくは悩みから解放される。しかし、時が経つにつれまた不安になり、神様に全幅の信頼を置けなくなり、自力による解決を模索したりして、日々思い悩んで落ち込んでしまっている自分に気づく。しばらくして再び神様の方を振り返り助けを求める。確固たる信仰を持ち続けることは小生にとって容易ではない。しかし今後の人生も神様と共に歩むのは間違いない。
(くもみ まさひろ)
越谷教会月報みつばさ2012年3月号特集「祈りに支えられて」より


特 集