今月の特集題  交わりの豊かさの中で




ともに復興する交わりを!
小幡 正
 アンパンマンなんて、べつにどうでも良かった。仙台のめいっ子たちが小さい頃いちばん好きな番組だと聞いても「へえー、もっとカワイイの今やってないのかな」と、何か腑に落ちない感じがしたけど、べつに理解したいとも思わなかった。それで彼女たちとは限られた話題でしか話が合わなかったけど、べつになんとも思わなかった。
 東日本大震災が起きた翌朝の新聞の第一面の横幅いっぱいに大きく載った写真を、私は一生忘れることができないだろう。何回か遊びに行った仙台湾の見覚えある場所!あの美しい砂浜や松林を越えて、海沿いの家や畑や車を今まさに飲み込もうとする、幅広い大波の写真。高校のとき自転車で走った、最高に気持ち良くて楽しかったサイクリングコースも、無残に飲み込む津波…。自分の血となり肉となっているふるさと仙台の一部が、今まさに「もぎ取られ始めている」写真。自分の胸の一部がえぐり取られる思い。
 仙台の母の住む老人ホームは全員無事との情報が間接的に届いてはいたが、震災発生の三日後に母からの電話がつながって声が聞けた時は、どれほど感謝したことか。でも、その感謝が大きければ大きいほど、大切な人を失った方がたの悲しみが痛いほど伝わってくる。
 今月号のテーマで書くはずが、どうしても震災のことに話が向かってしまうのをお赦しいただきたい。震災発生直後のテレビ画面は、ふるさと東北から離れて住んでいて、なんの手助けもできない私の弱さをも浮き彫りにする。電気もガスも水道も使えて暖かい部屋で腹いっぱい食べてる自分なのに、まるで被災地の悲しみ全部を自分が背負ってるみたいな悲壮感をもって、自分への「慰め」を求めてる。それを今いちばん必要としてる被災者のために祈りつつも、いつしか自分への慰めを求めてる…。
 テレビに耐えられなくなった心は、ラジオに癒やされた。停電でテレビが見れない被災地に、ラジオで届けたい、そういう曲のリクエストが北海道から、沖縄から、神戸から…、そんな中、新潟県中越地震で避難所生活を経験した人からのリクエスト曲「アンパンマンのマーチ」が流れた。「避難所の子どもたちから大人たちへと笑顔が広がりますように」とのメッセージも。
 アンパンマンはイエスと違って架空のキャラクターだが、彼は自分の顔(あんぱん)をちぎって与えて人を助けるのだということを、震災前の私は知らなかった。彼は子どもと大人を笑顔で結ぶ。
 アンパンマンのマーチが流れなくたって、いつでも子どもと大人が笑顔を交わし合える場所はどこ?ほんとうに裂かれたご自分の体を私たちに与えてくださっているお方、そのお体の一部である教会以外にあり得ようか。世代を越えた交わりの場が少ない今の日本では、なおさらのこと。

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(おばた ただし)


「コイノニア」に招かれて
関口 幸子
 みつばさから「交わりの豊かさ」という原稿依頼を受けた時、確かに私は「交わりの豊かさ」の中にいると思いました。ひとつひとつの出来事が交わりの豊かさに支えられ、助けられている、と思いました。ところが私の交わりについて思い浮かんだ事は、目に見える水平の関係であって大事なことが抜けていることに気づかされました。
 それは1月22日の地区の講壇交換で西川口教会の金田佐久子先生から「御父と御子との交わり」という説教を伺った時でした。「私たちの交わりは御父と御子イエス・キリストとの交わりに神の子とされ、招きいれられていることなのです。ギリシャ語のコイノニアとは、精神的なものを共有するという意味で、父なる神のみ言葉を共有するために教会の交わりがあります」とお聞きした時、私が実感している交わりの豊かさは、神のみ言葉に支えられる垂直の関係から成り立っていたのです。いつのまにか自己中になっていると思いました。またいつもその危険を、はらんでいると感じました。
 今、木曜日の午前の聖書研究・祈祷会ではヨブ記を学んでいます。なぜヨブは財産を奪われ、家族を失い、皮膚病に悩まされなければならないのか。素焼きのかけらで体中をかきむしるヨブに彼の妻は「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(新共同訳)口語訳では「死になさい」と言うのです。それでもヨブは「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と唇を持って罪を犯さなかったのです。そんなヨブ記を学んでいると信仰って何なのだろう?という疑問が湧いてきます。三人の友人にまで責められたら耐えられるだろうか?私なら逃げ出してしまうでしょう。でもどこへ逃げればいいのでしょうか。きっと神さまは「あなたはどこにいるのか」と探しにくるでしょう。そんなことを考えていたら、ヨブ記の続きが楽しみになってきました。   
 今日の聖書日課(時々沈没?)はヘブライ人への手紙11章でした。そこには「信仰によって」という言葉が21回も出てきます。信仰列伝ともいわれるこの箇所で、モーセは生まれてから3ヶ月間、両親によって隠されます。その子がかわいかったので王の命令を恐れなかった、そんな両親の上にも「信仰によって」の言葉が先立っています。
 そのように、目に見える私たちの日常も、目に見えない「父と子の交わり」に入れられてこそ、こんなに豊かにされているのです。そのことに思いを馳せる事ができた、この葛藤のひとときに感謝します。
(せきぐち ゆきこ)
越谷教会月報みつばさ2012年2月号特集「交わりの豊かさの中で」より


特 集