今月の特集題 奈落の底から神の業を見る
薩摩 牧子 |
それはまだ寒い、2月の学校での事でした。当時中学2年生だった私は、放課後上履きを下駄箱にしまい、靴を持って渡り廊下を歩いていました。すると突然左足の裏にチクッとした痛みを感じました。「あれ?とげでも刺したかな」とその時は軽く考え、とにかく歩いて家まで帰りました。ところが家に着く頃にはズキズキとした痛みに変わっていたので、近所の病院で診てもらい、シップ薬を貰い帰って来ました。それから毎日シップを続けましたが、痛みが取れるどころかかえって強くなり、ズキズキして夜も眠れない程(でもしっかり眠っていました)。足の裏を着いて歩けないので、左足はかかとだけ着いて通学していたら、かかとに豆が出来それが潰れて歩けない!仕方なくブロックの上に座っていたら、近所の人が通りかかり、自転車の後ろに乗せてもらって帰って来た事もありました。病院で松葉杖を借りても背の小さい私には合わず、右足だけで過ごす日が一カ月続きました。 1カ月後レントゲンを撮り、足の裏に針が刺さっていた事がやっと分かったのです。1カ月間動かなかった針だったのでまだ大丈夫だろうと、春休みを待って手術をする事になりました。その数日間、私は不安で一杯でした。臆病な私は手術が怖くて怖くて…。そんな時私の心に響いて来たのが、ガラテヤの信徒への手紙2章19〜20節「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(口語訳)の御言葉でした。(この御言葉は私の家のトイレに貼ってあったので、毎日無意識のうちに読んでいたのです)「フーン生きているのは私じゃないんだ。じゃあ手術を受けるのは私じゃなくてイエス様だね。じゃあ安心だね」と自分なりに解釈し、ホッとしたのです。ですから手術の日、台に上がった後も私の心は平安…なわけもなく、やっぱりドキドキ。主の祈りを唱えようと思っても出て来なくて、ただただ「神様助けて!」と祈る事しか出来ませんでした。針は先生が思っていたより深い所にあったそうですが、無事取り出す事が出来、感謝でした。 この事がきっかけとなり、私は2カ月後のペンテコステに洗礼を受けたのです。 神様のなさる事は分かりません。針が刺さっていた日々は、心も身体も痛くて辛かったけれど、でもその事があったから洗礼を受ける決心がついたんだし。やっぱりこれも神様の恵みだったのかなぁと、今思います。 あれからウン十年。未だに神様におんぶに抱っこで、しがみついている様な私ですが、いつの日かニッコリ笑顔で神様にお会い出来るのを楽しみに、生活して行きたいと思います。 |
(さつま まきこ) |
越谷教会月報みつばさ2011年10月号特集「奈落の底から神の業を見る」より |