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「もどかしさをありがとうにかえて」 |
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清水 義尋
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原稿の升目の上でペン先が静止したままただただ時間だけが流れて行く。「書きたくないな」と思う。この感覚は、説教の準備をしている時と、少し似ている。
時間をかけて聖書に耳をすませると、少しずつ神様のメッセージが聞こえてくる。それはとても輝きに満ちたものであるのに、僕が言葉に変えた途端に小さく断片的なものになってしまう。与えられている多すぎる恵みに触れた感動をあますことなく伝える言葉が、見つけられない。
言葉を紡ぐということはどのような行為であるのかについて、作家の小川洋子さんは次のように答えていた。
「ある夜ふと顔を上げると、満天の星空が私の目前に広がっていることに気がつく。あまりの美しさに見惚れてしまい、思わずつま先から指先まで目一杯伸ばして星を掴もうとする。けれども、当然指先が星に触れることは叶わない。手が届かないもどかしさをこころに抱えたまま、人は願いを込めてささやかな企てを試みる。夜空にまたたく美しい星々に手が届かない代わりに、星のひとつを言葉に変えて自分のポケットにしまうのだ。そうして小さなポケットに溜め込まれた言葉を用いてすでにそこにある物語を書き留めるのが私の仕事です」と彼女は言う。言葉の不自由さと表現したいものの偉大さ、そして愛おしさ。彼女の胸のうちにある想いが、僕にはよく分かる。
「越谷教会への想い」について書く。それは自分の一番奥深く、こころの真ん中にあるものが何であるのかを言葉にしなければならないということだ。言いたいことや表現できることはいくつかあるのだけれど、それを書いてしまうと越谷幼稚園、越谷教会が僕にくれたものがとてつもなくちっぽけなものになってしまう。それは、旅立ちのさびしさが長い時間をかけて優しい想い出に変わってからでないと、できそうもない。
今書けること。それは。それほどのものを与えてくれた越谷教会へのありがとうだけです。有り難い、奇跡のような日々の中で僕を育ててくださった皆様。本当に。どうもありがとうございました。
(しみず よしひろ)
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越谷教会月報「みつばさ」2021年3月号より
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