闘病記

薩摩 愛徒

病発症

 それは、ほんの小さな変化からであった。最初は歩行中に膝の力が抜ける程度のことだった。しかしこのようなこと大半の人は疲れているのだろうと気にも留めないだろう、当然私も気にしないでいた。ところがその2日後には重さ5kgの物でさえ持つことが出来なくなっていた。さすがにこれはおかしいと思い、明日にでも医者に掛かるべきと判断しその日は床に就いたのだが明朝目が覚めるともう起き上がることすら叶わぬ身体になっていた。玄関まで這って洗濯機にしがみついてかろうじて立つことができた。外に出たは良いが数歩で立っていることが出来ずに地面に座り込んだ。「よし、もう駄目だ」と思い「そうだ、救急車を呼ぼう」と考え119番に電話。
 救急車を待つ間近所の人が「なんだどうした」と出てきていろいろしてくれるのは田舎の良いところですね。遠くの親戚より近くの知人とよく言ったものだ。何やかんやしてる間に救急車到着、救急隊員の所見は脳梗塞ということで成田赤十字病院に搬送されることに。
 車内で家に電話しましょうということで家に電話。母が電話を取ったが救急隊員の「息子さんが倒れて救急車で搬送されている」という言葉に詐欺か?と思ったらしい。なんということか、最愛の息子が倒れたというのに、本人の携帯から掛かってきてるのだから詐欺なわけ無いだろう。そんなこんなで病院に到着、精密検査を終えて結果待ちしている時に母と兄到着。
 検査の結果脳梗塞ではないので脳神経内科の方に行ってくださいということでそっちに行く。そこで筋電図という痛い検査が待っていた。検査が終わり病室に行きしばらくするとベテラン医師と研修医2人が来て腰椎穿刺をするということだが研修医がやるとは恐ろしかった。検査の結果ギラン・バレー症候群とのことだった。ギランバレーとは自己免疫システムの異常で免疫が正常な神経を攻撃・破壊する難病である。


闘病とリハビリ

 前回ギランバレーと診断され入院した私。入院した翌日には指すら動かなくなり、まるで人形のようになっていた。ギランバレーは確立した治療法はなく血液製剤で進行を抑え自然に治まるのを待つ病である。しかしこの血液製剤、1本何万円という高価な薬品ではあったが一日6本を5日間やり進行を抑え何とか落ち着く。しかしまだまだ地獄のような日々は始まったばかりだった。食べ物を食べれば誤嚥性肺炎を起こし点滴、排泄障害を起こしていたので導尿バルーンを入れられる、鼻から12インチの栄養管を入れられる、酸素吸入管をつけられる等で全身管だらけに。でも死ぬかもしれないとは全く思わなかった。意識ははっきりしていたし感覚も正常だったからだ。だが感覚は無くなっていた方が点滴の際楽だったとも思う。
 そんなある夜のこと、何かの気配を感じ目が覚めた時、何の前触れもなく私のベッドに何かが乗ってきて頭に触れた。10秒〜20秒の出来事だったがその日は日曜日で病院の近くにはカトリック教会もあったのでイエス様が立ち寄って下さったのだと思う。
 さて症状も落ち着いた頃いよいよリハビリが始まった、まだ指1本自力で動かせないため、最初はリハビリ士が、関節が固まらないよう曲げ伸ばしを一日10分ほどしか出来なかったが日を追うごとに内容が濃くなっていった。当時もっとも辛いリハビリは5分ただベットサイドに座るというもの。聞くかぎり簡単に思えるが体幹が無い人間には酷な動作である。
 6月に入ると三郷のリハビリ病院に転院、本格的なリハビリが始まった。毎日3時間のリハビリのおかげで、鼻の管が取れ食べ物を経口摂取できるようになり歩行器で歩けるようになり指も自由に動くようになった。11月には更なる機能回復にむけて所沢の国立のリハビリ病院に転院。年が明け今は階段昇降の練習が主なリハビリ内容である。病気の特徴で時間は掛かるが必ず治るものなのでこれからも頑張っていきたい。
 余談だが1月22日に病院の40周年式典で天皇皇后両陛下が訪れた時の記念の宮内庁の和菓子がとっても美味しかった。

          (さつま まなと)

越谷教会月報「みつばさ」2020年2月号と4月号より