神学校日礼拝

見失った一匹を見つけ出すまで

東京神学大学神学部4年 李 振一

 イエスさまは罪人たちを迎え、彼らと食事を一緒にされました。しかし彼らは、ただの罪人たちではありません。彼らは悔い改めた罪人たちです。自分が神様から離れ、失われている者であることに気付き、神様のところへ立ち帰ろうと神様の方へ目を向け直した人たちです。イエスさまは彼らのことを見失った羊にたとえて言われます。
 見失った羊は、自分が気付かないうちに羊飼いから離れてしまい、気付いたときには羊飼いのところへ帰る方法が分からず、その道も知らないという、本当に失われた状態にある人のことです。これは、信仰の弱い私たちがキリスト者でありながらも世の価値観を優先し、自分の思いを優先しながら自分が行きたいところへ進んで行こうとする私たちの姿でもあります。故に私たちは、ときには道を誤り方向を失ってしまう者ではないでしょうか。
 けれどもイエスさまは、そのようにして道を失ってしまう私たちを、私たちがまだそれに気付く前から探され見つけ出してくださるお方です。いつも私たちより一歩先を歩いておられ、私たちを私たちが思っているよりもはるかに、世の砂の数よりも多く思って下さるお方です。十字架の上でご自分の命を捨てるほど私たちを思って下さるお方なのです。その慈しみと憐れみ深い御心の故に、私たちは悔い改めることに導かれ、罪の赦しを得、その罪によって断たれていた神様との関係が回復される恵みに与ることができるのです。
 ですから私たちは、道を失いただ泣き叫ぶことしかできないような状況の中にあっても、イエスさまが私たちを見つけ出し、まことの平安が与えられるところへと連れて帰ってくださることを信頼すべきです。なぜならそのお方は、私たちの善き、そして唯一の羊飼いであるからです。 (い じんいる)

礼拝後の卓球大会

越谷教会月報「みつばさ」2015年11月号より