特別伝道礼拝
マティーアス・プッペ牧師を迎えて
世界における信仰
古澤ひかる
8月17日、ベルリン・ブランデンブルク福音主義教会ヴィットシュトック・ルッピン教区議長のマティーアス・プッペ牧師をお迎えして特別伝道礼拝が持たれた。
マタイによる福音書より『あなたがたは地の塩である』に基づき、「互いの国が遠く離れていても、私達は同じように神の愛と憐みに生かされている。キリスト者は塩のようにあるべき」と効果のある信仰について説かれた。そしてドイツの教会が現在抱える課題を挙げられたが、歴史や規模の違いこそあれ、地方での教会員の減少や高齢化など、抱える問題は日本と似ていると感じた。またドイツでは教会の社会参加に関心を持つ人が多く、そのような人々への伝道も重要な課題だと述べられた。
「今年は第一次世界大戦勃発から百年目にあたり、教会として戦争を阻止できなかった罪を認識している。キリストには他者の犠牲の上に立つ平和は無い。いかなる戦争も正当化してはならない。殺してはならない」と強く語られた。前日石橋先生のガイドで都内を共に観光したが、昼食時には石橋先生と戦争について話され、日本人が第二次大戦を現在どのように捉えているかについて興味を示しておられた。
とても気さくで穏やかなお人柄で、私が説明に困ると優しくフォローして常に助けて下さった。会話の中で特に青年伝道に力を注いでおられる様子が伺えた。今回も数名のドイツ人青年に同行し来日された。
「言葉の障壁と国境を越えて存在する共同体がここにある。私達は皆、イエス・キリストにおいて聖霊により結ばれている」。心からそう実感することの出来る出会いであった。
(ふるさわ ひかる)
越谷教会月報「みつばさ」2014年9月号より
以下は、当日の翻訳原稿の全文です。
説教題:「世界における信仰」
聖書箇所:マタイによる福音書第5章13節から16節
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
皆さんの心のこもったおもてなしに感謝致します。また、本日ここ越谷教会で皆さんにお話しすることが許され本当にありがとうございます。皆さんの教会と私達の教会は1万キロメートル離れており、飛行機で地球半周分の旅をする距離があります。それにも関わらず私達はお互いに分かりあうことができます。なぜなら、私達はキリストにおいて互いに結ばれており、ドイツでも日本と同じように、私達の命をキリストの光の中に見ているからです。
この信仰の光を照らすために、私達は日本でそしてドイツで努力しています。私達の教会は実に異なっています。その歴史を比べることは出来ません。しかし、私達の教会は、ある点で全く同じなのです。つまり、あちらでもこちらでも私達は信じています、私達が神の愛と憐みに拠り頼んで生きていることを。私達がこの憐みと愛の中でよく生きねばならないこと、そして、クリスチャンであるなしに関わらず、人間にとってこの神の愛と憐みが確かな拠り所となり、人々がこのことにより招かれることを信じています。
イエスはマタイによる福音書でこう言われます。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に味気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう…」
クリスチャンであることは、塩のようにあることです。私達の信仰には効果がなければなりません。クリスチャン同志の互いの人生に、そしてまたすべての人々の人生に影響を与えるものでなくてはなりません。人生には「味」がなくてはなりません。人生は喜びと愛に満ちているべきであり、「味気ない」ものであってはなりません。
私達の州教会である、ベルリン・ブランデンブルク−シュレージェン・オーバーラウジッツ福音主義教会(略称EKBO)では、10年前からこの教会の理想像に取り組んでいます。教会員の群れとして、教会として、ひとりのクリスチャンとして、どうしたら「塩」でいることができるのかを、私達は改めて深く考えています。私達を取り巻く環境は激しく変化しており、そのため私達には次のような新しい課題が生まれています。
・いまだ4人に一人しか、福音主義教会に属していないこと。
・多くの人は、自分の家庭の中で信仰について体験することが全くなかったために、どのようにしてキリスト教の信仰を行えばいいのかをもはや知らないこと。
・地方や村々の教会員の群れがますます小さくなり、高齢化していること。
これらのことが起こっている時に、私達はどのように「塩」であることができるでしょう。
私達の州教会では、なお100万人の人々が福音主義教会に属しています。(ドイツ全体では合計およそ2千300万人です)。しかし、この数は常に減少しています。多くの人々が、教会に所属することを疑問視するようになっています。ですから私達は今日、数年前よりももっと徹底的に、私達の信仰のメッセージを伝える方法を探し求めています。
私達の教会の幾人かはこう言います。「私は、自分の地域にある教会の建物が清潔であればそれで満足です。」他にこう言う人もいます。「牧師を一人知っていれば、それで十分です。必要な時は、その方のところに行けばよいのですから。」また、こう言う人もあります。「教会の鐘が鳴ること、そして、礼拝があることは良いと思います。でも、私自身が礼拝に出席するでしょうか? 私にはそれほど大事なことではありません。」
その一方では、多くの人々が、たとえクリスチャンではなくても、教会の社会参加について、高く評価しています。多くの人々が自分たちの子供を、福音主義の幼稚園や福音主義の学校に、好んで通わせます。多くの人が、キリスト教的なケア、つまり社会奉仕活動を求めたり、あるいはキリスト教系の病院に好んでかかります。
教会と、教会が提供するものに関心を持ってもらうことで、私達は遠くにいる人々に呼びかけ、彼らを招くことができるようになります。
この事を認識し、更に発展させることが、私達にとって重要な課題なのです。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に味気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう…14節あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15節また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」
塩であること、光であること。そのために私達は大勢である必要はありません。クリスチャンの群れとして、たとえ少しの人数しかいなくても、私達は「塩」そして「光」であることができます。イエスはこう言われます「あなた方が柔和で、憐れみ深いなら、あなた方が義に飢え渇くなら、あなたがたが平和を作り出すなら、あなたがたは幸いである」。
多くの権力と社会的影響力を持つ大きな教会には、ただキリストを拠り頼むのではなく、別の力を拠り所とする危険があります。
ドイツでは今年、100年前に勃発した第一次世界大戦を特に思い起こしています。当時私達の教会はまだ国教会でした。つまり、強大な権力を持っていたのです。
多くの牧師達が、「神と国王そして祖国」のために、戦場に赴くことを呼びかけました。牧師達を止めようとしたクリスチャンはごくわずかしかおらず、しかも彼らは祖国に対する裏切り者と呼ばれました。当時、あまりにも多くの牧師が、自国民への義務感から、敵に対する憎しみと、キリスト教の隣人愛は完全に相容れると考えたのです。ドイツの兵士達が第一次大戦の戦場に赴いた時、彼らのベルトの留め金には「神、我らと共にあり」という言葉が刻まれていました。
今日、私は私達の州教会に属する町や村の教会を訪れますが、すると、ほとんど全ての教会で、第一次世界大戦で亡くなった多くの兵士の名前が書かれた銘板を見つけます。父親達、息子達、兄弟達の名前がそこにあり、この戦争の悲惨さを物語っています。これらの記念銘板にはしばしばタイトルとしてこう書かれています「国王と祖国のために戦死」。このことは今日の私達にとってひとつの警告です。すなわち、平和を作り出したいと強く願う人は、戦争を正当化してはならないし、何のためであっても、誰のためであっても、殺してはならないのです!
私達の教会は今、100年前にこの戦争を阻止しなかったキリスト教会の罪を、この記念の年にあたって、はっきりと認めています。今日私達は、状況をよりはっきりと見ることができ、私達にはこの世における戦争に反対する好機が訪れています。しかし残念ながらその声はあまりにも小さいのです。私達は学びましたが、しかし学んだことはごくわずかに過ぎなかったのです。ドイツは武器を輸出しています。ドイツ人兵士は再び外国での軍事行動に参加しています。ドイツの国家予算の10分の1が連邦国防軍の軍事行動に注入されています。このことを問題視する人はドイツではほとんどいません。なぜなら、武器の輸出と軍隊の投入により、名目上自国の利益が守られるからです。
イエスにとって、他者の幸せを踏みつけて存在する自己利益などありませんし、他者の犠牲と引き換えに財産を手に入れることもありません。このことは私達の教会、そして私達の社会参加にもあてはまります。「塩」は必要です。必要なのはまさに少量なのです。
皆さんの教会と私達の教会の関係は「塩」です。出会って、その人生と信仰について語り合う私達は、ほんのわずかな人数です。
私達の出会いは塩粒のようです。私達の出会いは平和の印です。他の人達は、私達の例を見て、世界中で心を通じ合わせることが出来るとわかるはずです。私達には、イザヤ書にある「新しい天と新しい地」のビジョンがあります。一年前、日本とドイツの若者たちがドイツのヴストラウで共にこのビジョンに取り組みました。
あらゆる言葉の障壁と国境を越えて存在する共同体がひとつ、ここに実現しています。私達は共に祈り、共に歌います。なぜなら私達はキリストにおいて聖霊により共に結ばれているからです。私達はこのことを心から喜ぶことができます。
さあ、ご一緒にともし火を燭台に置きましょう。16節にあるように他の人々も私達の「天の父をあがめる」ようになるために。
あらゆる人知を超える神の平和よ、私達の心と考えとをキリスト・イエスによって守りたまえ。
アーメン