マザー・テレサは1910年に旧ユーゴスラビア(現在の北マケドニア共和国)のスコピエという地で生まれました。本名はアグネス・ゴンジャ・ボヤジュと言います。 父は地元の名士である二コラ、母はドラナフィル、ほかに姉と兄がいました。父はアグネスが9歳の時に死去しています。まだうら若い頃から修道女として献身的に働き、18歳の時修道院の教師として当時のイギリス領インドのベンガル地方に渡り学校や修道会の指導にあたりながら、1937年には一生をイエス・キリストに捧げることを意味する終生誓願を立てます。この頃、修道院外の学校でも教える機会ができ、スラムの過酷な住環境とそこで暮らす貧しい人々の現実に直面します。 1946年9月、マザー・テレサは汽車の中で「すべてを捨て、貧しい人のために働きなさい」という啓示を受けたとされ、この日は「決意の日」と言い伝えられています。 38歳のとき、それまで在籍していた修道会を退会して現地に留まり、活動を本格的に始めました。修道院を出たマザー・テレサはサリーを身にまとい、コルカタのスラムで、 学校に通えない貧しい子供を集めて青空教室を始めます。この頃、かつての教え子が最初の協力者としてマザー・テレサのもとにやってきます。のちに補佐役として 支えるシスター・アグネスでした。1950年、マザー・テレサはインドに国籍を移します。そして12名のメンバーで「神の愛の宣教者会」を 創立し、貧困と疫病が蔓延しているコルカタで学校や孤児院、さらに、死を間近にした人を介護するホスピス「死を待つ人の家」を開設しました。 それから活動の幅は広がり、インドをはじめ世界55カ国に211の修道院が開設され、会員も2000人を超えたとされています。 マザー・テレサはその生涯のすべてをそのために捧げたのです。 マザーテレサは1981年、1982年、1984年と3度、日本を訪問しています。来日時彼女は言いました。「日本の皆さんに知ってほしいことがあります。それは自分たちの働きが単なる医療活動が目的ではないんだということ、…人の苦しみ、悲しみ、 痛みというものを私たちがどのように受け止め、それをどのようにいやそうとしているかが大事なんです。」また「人と人とのコミュニケーションというのは、愛の代名詞 なんですよ」と。 マザー・テレサは、1997年9月5日にカルカッタの修道院で、その87歳の生涯を閉じました。ノーベル平和賞を受賞した彼女が世界に残した平和的遺産は、実に大きなもの だったと思います。受賞の際の彼女の言葉です。「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって、この名誉ある賞をいただき ます。私のための受賞晩餐会はいりません。どうぞ、そのお金を貧しい人々のためにお使い下さい」 「人間にとって最大の不幸は何か」という自らの問いかけに対し、マザー・テレサは「貧困、飢え、病や障害、歳をとることは不幸のようですが、それはただ不自由なだけです。 見捨てられた状態、それが最大の不幸です」「愛の反対は憎しみではありません。それは、愛がないことです。無関心です。だれにも望まれていないと 感じるとき、人はもっとも深く傷つきます」と言いきっておられます。マザーの言葉は、どれを取ってみても、そしてどんなに短いものでも、心に深く染み渡ります。 20世紀を代表する世界的なお母さんだったと言われているマザーテレサの活動は、世界中の人々の共感を呼び、その遺志を引き継いで活動する聖職者は世界百カ国各地に及んでいます。 今日、家庭や学校においても、ありのままの自分の存在を受け止めてくれる場がなく、孤独のゆえに引き起こされる犯罪が後を絶ちません。私たち一人ひとりがマザー・テレサのように貧しい人、悩む人、病気の人に手を差し伸べる心を持つことが出来ますように、お互いに愛し合い、許し合い、1人でも多くの人にイエス・キリストのみむねを伝え、1人でも多くの人に限りなき主の愛が注がれますようこのクリスマスを迎えるにあたりお祈りします。 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイの信徒への手紙3章12〜13節)