母マリアと幼子イエス


      

神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
(ヨハネによる福音書3章16節〜17節)

 

  主イエス・キリストは、聖霊によって、マリアからお生まれになりました。聖霊とは、神様の霊のことです。つまり、真の救い主は、人間の力を介することなく、神様の御業として、神様に等しい存在として、お生まれになったのです。 しかし、同時に、キリストは、マリアという一人の人間からもお生まれになりました。つまり、真の神である御方は、真の人としてもお生まれになったのです。聖書には、次のように記されています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙T4章10節)
  キリストの誕生は、私達の罪を償ういけにえの誕生です。キリストの誕生以前は、罪を償うために、傷のない動物が捧げられていました。しかし、人間の罪を、どうして、動物が背負えるのでしょうか。人間の罪の責任は、人間にあるのです。また、傷のあるもの、罪のある者が、罪を償うことはできません。汚れた布巾で汚れを拭いても、本当の意味で汚れは落ちないからです。
  つまり、私達人間が、本当の意味で、罪や滅びから救われるためには、罪のない人間が償いとならなければいけないのです。そして、それが、主イエス・キリストなのであります。神様は、大切な独り子を、惜しみなく死に渡されるほどに、私達を愛してくださいます。私達の罪や弱さよりも遥かに大きな愛をもって、私達を救いへ招いておられるのです。 深い悲しみや痛みの多い時代となりました。一人ひとりの心の内に、この神様の愛が届けられ、その愛が互いに愛し合うための原動力となることを祈り願いたいと思います。
 越谷教会牧師 須賀 工

      

 イエス・キリストの誕生は、ローマ暦で747年、紀元前6年であるといわれています。
ヨセフとマリアはローマ皇帝アウグストの勅令の人口調査のためにナザレからヨセフの祖先の地ベツレヘムにいくことになりました。ヨセフとマリアは長い長い道のりを旅してきました。旅に出て5日目の夕暮れが近づくころ、小さなベツレヘムの町に着きました。2人はとても疲れていたので、町の家の明かりにほっとしました。
 けれども、ベツレヘムの宿屋はどこも満員で、泊まれる部屋はありませんでした。人口調査で、大勢の人々が集まっていたからです。2人がようやく落ち着けた場所は、村の家畜の番人が使っていた町の近くにある洞穴で、ろばや羊や牛のために造られた粗末な洞窟の中の家畜小屋でした。
 ヨセフはマリアのために藁を敷いて寝床を作り、毛布の代わりに自分の外套をかけてあげました。その夜、マリアはここで男の赤ちゃんを産みました。世界の王様、救い主のお誕生です!マリアとヨセフは赤ちゃんを亜麻布でくるみ、動物たちのえさを入れる飼葉おけに寝かせました。
 その夜遅く、羊飼いたちがこの粗末な小屋を訪ねてきました。御使いから救い主のお生まれを知らされ、町に駆けつけたあの羊飼いたちです。彼らは、飼葉おけの中ですやすやと眠る赤ちゃんを見た瞬間、喜びにあふれました。「御使いが、私たちにこの赤ちゃんのことを知らせてくれたのです」と、羊飼いたちは周りの人々に語りました。

 
 ヨセフとマリアはその子に天使のお告げ通り、「Jeshua(イエシュア)」と名付けました。主は救いであると言う意味です。そのギリシャ語形が「Jesus」です。誕生の8日目に、ヨセフはユダヤの律法に従ってイエスに金属の小刀で割礼を施しました。
 イエスが生まれた翌日には、ヨセフは村へ行き国勢調査の役人に、登録をしました。40日が過ぎ、彼らはエルサレムにまで旅をして神殿へ参拝をしにいきました。当時のしきたりとして、鳩を2羽捧げ物とし祭司に祈ってもらい、子供を産んだ不浄なマリアを清めてもらうためでした。イエスの誕生からしばらくして、東方の博士達が、占星術によってパレスチナにメシアが生まれたと悟り、この地方にやってきました。その博士のうわさを耳にしたヘロデ王は、自分の玉座が脅かされるのを恐れて、ベツレヘムにいる2歳以下のすべての男子を殺すようにと命令しました。ヨセフとマリアはそのことを天使のお告げにより事前に知らされていたので、幼な子イエスを連れてエジプトへと逃れて行きました。
 
 イエスが2歳になろうとする頃、ヨセフとマリアはヘロデが亡くなったことを風の便りに聞きました。ヨセフはもう、故郷のガリラヤに戻っても危険がないと判断し、マリアと幼な子イエスを連れて帰ることにしました。イエスがその生涯の殆どを送ることになるガリラヤ地方は、パレスチナでも他に例を見ないほど美しい肥沃な所でした。春になると野には一面に花が咲き乱れ、なだらかな丘陵と草原は穀物を育てたり家畜を放牧するのに最適でした。 快適な気候のため、ぶどうやいちじく・オリーブ・ざくろなどの果実がたわわに実りました。また、ガリラヤ湖では、どこまでも青く澄んだ湖水が豊かに波うち、多くの魚が棲み沿岸の漁村の生活を支えていました。
 ヨセフとマリアが戻ったナザレも、そんなガリラヤ地方の平原の北に配する丘陵地帯の盆地の村でした。ナザレの村人たちは、戻ってきたかつての隣人のヨセフとマリアを、快く迎えました。ヨセフは家に戻ると、そのまま置いてあった大工道具を使って今までの大工の仕事を始めました。
 こうして、幼な子イエスは両親に愛され、村の人々からも歓迎され、すくすくと育まれていきました。
 
 
       

 旧約聖書にはメシヤ出現の預言があちこちにあり、ユダヤ人は自分たちを外国の支配から解放してくださる王として、長い間待ち望んでいました。でも聖書が本当に示していたのは、悪魔の支配から解放し、神の国の支配へと移してくださる霊的な王なのです。そしてその約束されていた王こそ、今生まれたまいし幼子イエス・キリストなのだと天使は告げたのです。ヘンデルの『メサイヤ』の中の「ハレルヤコーラス」に、「諸王の王(キング・オブ・キングス)」という表現があります。王たちを支配する王がイエスだとの宣言です。
 歴史をヒストリーと言いますが、これはヒズ・ストーリー(彼の、神の物語)から来ています。歴史は人間が生きてきた時代の連続ではなくて、人を生かしつづけてきた真の主人公である神の物語だというわけです。
 そればかりか神の民イスラエルの主、所有者である主人。アブラハム、イサク、ヤコブの神という一人一人の、個人の主でもあられます。モーセは、「わたしはある」(出エジプト3・14)と言う方、ヤハウェの神に出会いました。このヤハウェは「主」と訳されていますが、「契約関係を結んだ主人」という意味です。その方と個人的に主従関係を結ぶということが、旧約では割礼、新約ではバプテスマということなのです。
 その契約とは、力と権力によっ私達を治め、私達は力と権力にひれ伏すと言う主従関係ではありません。私達が神という存在を信じることによって、神が私達の罪を許し、私達を救い、永遠の命を与えてくださると言う契約なのです。そしてその契約がある限り、私達の心は何事があっても平安でいられるのです。
クリスマスは、“世を救い・治める”最高の権力者の誕生の日です。
私の主人である神が人となられたクリスマスを、心からお祝いしたいと思います。


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